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2013年4月24日水曜日

阿蘇インターナショナル・スピードウェイ(熊本県)

阿蘇インターナショナル・サーキット(仮称)
フルコース:6.01km
東コース:3.91km
西コース:2.18km



 九州にサーキットふたつ!?
このところ日本各地でサーキット建設計画の噂が絶えないが、最近になって、熊本と鹿児島でも同様の計画が進められている事が明らかになった。
前者は九州産交(本社・熊本市、岡陽一社長)が手掛ける「阿蘇インターナショナル・スピードウェイ」(仮称)。
阿蘇外輪山付近に1周6kmのコースで、レジャー施設を含めた総工費は70~80億円。64年度中に着工し、65年度中にまず東コースを完成させるという。
(カーグラフィック 1988年 9月号より)
(※昭和64年→平成元年・昭和65年→平成2年) 

熊本県阿蘇郡阿蘇町(現熊本県阿蘇市)に建設が計画されていたサーキット。
地元の九州産業交通が主体となっていた。

コース内容としては1989年中に東コースを建設し、第2期工事として続いて西コースを建設する予定だったようだ。

熊本のドライブコースとして有名な「ミルクロード」沿いに建設が予定されていたが、霧が多い他、国定公園法との調整でも手間取っていたようだ。

当時、この辺りでは建材(=レイトンハウス)が阿蘇市の西側に隣接する産山村にF1開催規模のサーキット建設計画を発表。
そして、北側の県境を超えた大分県上津江村では既にサーキットの着工に入っていた。
これが今の「オートポリス」である。

約15km圏内にF1開催が可能なサーキットが3つも計画されていたという、まさにバブル期のある種狂気じみた程のF1・モータースポーツバブルを象徴するような事柄だろう。


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2013年4月19日金曜日

大分県別府市特設コース/別府国際モータースポーツカーニバル(大分県)

ここでは国内モータースポーツ初の市街地レース計画「別府国際モータースポーツカーニバル」について取り上げる。

1982年9月のオートテクニックでは別府市で公道レースが行われ、F2かGCレースが行われるだろうといった趣旨の記事が掲載された。

数カ月後には詳細な計画が掲載され、F2レースを国際格式かつ全日本選手権、もう一つグループC等の耐久レース車両でのスプリントレースの2つがメインイベントとして開催される他、スターレット・パルサー・シビック等のワンメイク車両でのレースなども行われるとされている。

当初の計画では、特設コース内での4輪レースを行った一週間後、別府市から北西にある陸上自衛隊十文字原演習場を使い、4輪によるラリー・ダートトライアル、2輪モトクロスなどを行う計画もあったが、こちらは早い段階で計画から外されている。

他にも別府市内でのパレードや自動車展示会、映画上映、グッズ販売などレース以外にも沢山のイベントが計画されており、正しく「モータースポーツカーニバル」と言った様相であった。

計画では、別府市中心部から北東にある別府国際観光港の埠頭とちょうど目の前を通る国道10号線の一部を使う1周2.5km程度のコースの予定だった。
当時港は造成中であった。

レースコース略図 

メインレースとの一つとなっているのは当時国内で人気を博していた全日本F2選手権である。
当時全日本F2が行われていたのは鈴鹿・富士・西日本(現MINE)の3サーキットで、主に鈴鹿サーキットを中心に開催されていた。
この全日本F2選手権の1戦としてこの別府が組み込まれる予定だった。
国際格式での開催との事で、海外から選手などを招聘する意図もあったのかもしれない。
もう一つ、グループC規定でのレースが始まり、熱も高まってきた耐久レース車でのスプリントレースもメインレースとなっている。
このスプリントレースでは全国のサーキットを耐久・スプリント共に行いながら転戦していく「インタースーパースポーツシリーズ(仮称)」というシリーズ戦の1戦として組み込まれる計画だった。

この別府市街地レースを企画したのは別府市観光課である。
温泉旅行が下火になってきており、別府市への観光客が減ってきているという現状から町興しとしてのレース開催の計画であった。
別府では当時からハングライダー大会やマラソン大会などのスポーツ大会も開催しており、そのような流れでモータースポーツも開催出来ないだろうかという流れになったようだ。
当時の別府市長、脇谷市長も1982年のカーグラフィック12月号では
うちは観光都市ですから、人を集めなければならないわけです。ところが温泉地の全国的な傾向なんですが、若い人がだんだん遠ざかってしまっている。(中略)
特に今度は車、車は誰でも関心を持っているでしょうから、これまで以上に多くのお客さんを呼べるでしょう。6~7万人は期待していますね。もちろん、これは1回限りではなくて、少なくとも5年は続けてやりたい。そのために恒久的なコンクリートフェンスなども、市の予算をちゃんと組んで作らなければならないでしょうね。
と市としてもかなり熱心にイベント開催に取り込んでいる事をインタビューで語っている。

市と共に計画を進めていたのがVICIC(ビクトリー・サークル・クラブ)である
VICICは日本各地でレースのオーガナイザー、プロモーターとして活動しており、当時はWEC(世界耐久選手権)を日本に初めて呼び込み、その勢いで日本初の市街地公道レースを実現させようという流れである。
そこにWECジャパンではラジオやテレビなどのメディアでのプロモーションで関係していた広告代理店の電通も企画に参加している。

しかし、1983年のカーグラフィック3月号では早くもレースを1年延期するという記事が掲載された。
ここでは国道を使うことはやめる事になり、観光港の湾内道路と駐車場を使いコースを構成するのは変わらないが、レースを開催するには十分な敷地が確保出来ないということが分かり、拡張が必要との事で一年延期ということになった。

ここからしばらく計画は表沙汰に上がる事はなく、結局1984年1月のオートテクニックでは公道使用の警察との合意が進んでいなく保留という形になり、そのまま計画は頓挫したと思われる。

しかし、この別府のレースが契機となり様々な都市で市街地レースが企画されたとのことだ。



2013年4月10日水曜日

船橋サーキット (千葉)

船橋サーキット

距離:1.8km/2.4km/3.1km 左回り

コース幅:15.75m~9m(スクールコース 60m)

船橋サーキットは当時千葉県船橋市に存在していたレジャーパーク、船橋ヘルスセンター内の施設として存在したサーキットである。

(国土地理院 1966年の航空写真より)

コースのレイアウトは元F1ドライバーで、優勝経験もあるイタリア人のピエロ・タルッフィ。
タルッフィは当時、日通が建設を計画していた伊豆韮山サーキットのアドバイザーとして来日していたが、諸般の理由で頓挫し、その後すぐに船橋に来たようだ。
ファルッフィは他にもドライビングテクニックの講師として来日したり、ドライビングテクニック本が日本で翻訳されたりと日本に馴染みが深い。

(鎖線が3.1km/点線が2.4km/実戦が1.8km)
タルッフィのアドバイス通りに設計されたサーキットは埋立地をフルに使われたコンパクトでテクニカルなレイアウトである。
サーキットは主に外周コースと、インフィールドに設けられた60mもの幅を持つ舗装路のスクール・コースで成り立っている。この2つのセクションを組み合わせて主に3種類のレイアウトを作ることが出来た。

外周コースはホームストレートから多少下りつつ1コーナーを抜け、飛行場沿いにある約550mのストレートを進む。
その後S字カーブを抜け、靴下の様な形をしている事から名付けられたソックスカーブを抜ける。
ヘルスセンター名物の一つでもある「ゴールデン・ビーチ」と呼ばれる人工海岸を横目にダンロップブリッジをくぐり、最終コーナーを抜けて一周となる。 これが1.8kmのレイアウトである。

2.4km/3.1kmのレイアウトを使用する場合は、ダンロップブリッジ前の分岐を左に曲がり、スクールコースをそれぞれ抜けてからホームストレートと互い違いになっているピット前のストレートに進む。
そこから右コーナー、左ヘアピンと進み、元の外周に戻ってくる。
このレイアウトの場合はグランドスタンド前を2度通って1周してくることになる。

スクール・コースではジムカーナ等が開催され、やろうと思えば外周コースとスクール・コースでそれぞれ2つのイベントを開催することも出来た。

(勾配表 殆んど平坦である)
当時は鈴鹿サーキットが1962年に開場し、近代的なサーキットとしては日本2番目に開場した。
ちなみに富士スピードウェイは1966年開場である。

(建設中の船橋サーキット)

1965年の7月1日に船橋サーキットが開場した。
船橋サーキット最初にして最大のレースイベントとなったのが、船橋サーキットのオープニングイベントにもなった全日本自動車クラブ選手権レース大会通称、船橋CCCレースである。
7月17-18日に開かれたこのレースは、当初5月に鈴鹿サーキットで開催予定だった第3回日本グランプリが急遽中止になったために開かれた代替レースだった。
自動車クラブ対抗戦として行われたこのイベントだが、このイベントが船橋サーキットを語る上で欠かせないイベントになっている。
その中でも、浮谷東次郎の駆るトヨタスポーツ800、ロータス・エランでの雨中の激走が今でも語り草になっている。
詳細は船橋CCCレースに関するWebページや「日本のレース100戦」などを参考にして貰いたい。



船橋CCCレースの様子



都内から近い地の利を生かし、レースイベントの他にも自動車クラブの練習場として使われたり、レンタカーでの走行なども人気を博していたという。
ちなみに当時の記録によると、スポーツ走行が1時間1500円、レンタカーは1周180円である。(1965年の参考:ビール120円、たばこ30円)

しかし、開場から3年ほどになる1967年の春頃からサーキットがオートレース場になるという噂が立った。
当初は否定していたものの結局はサーキットは閉鎖され、オートレース場として転用されることになった。
当時、船橋オートレース場は北東にある船橋競馬場の内側にダートコースとして存在していた。
ちなみに日本最初のオートレースが開催された由緒正しき場所でもある。
しかし、オートレースが舗装化されることにより、代替地の検討が始まっていた。
そこで船橋サーキット側の方からサーキット敷地を移転先として提案したそうだ。
その背景には、サーキット経営での採算が取れないという問題や、イベント開催に関してJAFとの確執などもあったという。

結果、1967年7月31日をもって船橋サーキットは閉鎖される事になった。
3年間の間に三十数レースが開催された。

その後、サーキット跡地に建設された船橋オートレース場はサーキットの丁度ホームストレート・ピット辺りにコースが出来ている。
開場当初からしばらくは船橋サーキットのグランドスタンドがそのまま利用されていたようだ。

現在は船橋ヘルスセンターも閉場し、跡地はららぽーとTOKYO-BAYとなった。
サーキットの跡形はなく、オートレース場のコース、駐車場、一般道になっている。
ソックスカーブ辺りは京葉線・東関東自動車道が通っている。
辛うじて当時のプールに沿った辺りの駐車場の形状でサーキットの形が多少分かる程度である。
噂では駐車場の舗装が剥がれている所から当時のサーキットの舗装が覗いているとの事もあるそうだ。

東京から1時間以内で行ける本格的サーキットとして2年のわずかな期間のみ使用された幻のサーキット。
その2年の間に当時のライセンス保持者の1/3がこの船橋サーキットで取得したと言われている。
現在に繋がる日本モータースポーツ史の中でも重要な場所の一つであることは間違いないだろう。



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