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2013年1月24日木曜日

東原セーフティ・サーキット・イン・カナザワ (石川)


金沢市に3.5kmのサーキット
現在、金沢市東原町で測量を開始しているこのサーキットは"東原セーフティ・サーキット・イン・カナザワ"という名称をもつ。
国鉄金沢駅から国道305号線で17km。いままでのサーキットのように人里離れた不便な場所ではなく、市街地が至近距離にある点で画期的なもの。
筑波サーキット以上に屈折の多いテクニカルコースで全長3.5km(ショートコース1.8km)。
名称が示すように9m~30mのコース幅に沿ったグリーンは5m~40mと広く安全性が高い。
パドックは1700平方メートルでスズカ並み。収容人数はグランドスタンド2000人で、その他は周囲のどこからでも観戦が出来るように原っぱが広がっている。
イギリスのブランズハッチと似たようなレース風景になる。
完成は来年5月の予定。レースはアマチュア中心に考えてオーガナイズしていく方針で、準国内以下のレースが多くなるようだ。また冬期のシーズンオフには、スノーモビル・レースを行う予定である。
(オートスポーツ 1972年 10月15日号より)

予定地であると思われる場所は現在「金沢モトランド」 というモトクロスコースになっている。

原っぱで丘になってる所から観戦出来るサーキットは素敵ですね。


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日本海間瀬サーキット (新潟) -未完

日本海間瀬サーキット


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日本海間瀬サーキットの歴史は、1967年8月から始まる。
新潟県オート・クラブ(ACNP)というクラブの代表が建設したこのサーキットは、当初はジープなどが走行するダートコースだったという。
国土地理院の航空写真では、1967年9月に撮影された完成したてのコースを見ることが出来る。
この頃は高低差が30m、コーナーの数は22あったという。

1967年9月の航空写真


日本海に面した間瀬サーキットは盆地であるゆえに、集中豪雨などでしばしばコースが水没してしまうという事があった。
その後、1968年6月には片側半分を簡単な舗装にし、株式会社日本海間瀬サーキットを立ち上げた。
そして、1970年5月からサーキット用の特殊アスファルトの舗装工事を始め、ロードコースに生まれ変わった。
ここで、注意したいのは当初は左回りのサーキットだったという。
70年代の航空写真

1971年のオートテクニックには当時の日本海間瀬サーキットの走り方を解説した詳細な記事が掲載されている。
当時のコースデータ



74年と75年には当時大人気だった富士グランチャンピオンレースの車両を持込み、レースをしている。
富士GCのそうそうたるメンバーがこの狭いサーキットを駆けまわったのは新潟の人々にはかなりの衝撃を残したのではないだろうか。
今で言うとSGTの車両が来た感じかもしれない。
75年のレースでは、マーチ73Sを駆る長谷見昌弘が予選で58.9秒のタイムをたたき出し、そのままポールトゥウィンを飾っている。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=3131



2013年1月22日火曜日

磐梯熱海スピードウェイ (福島)


福島県郡山市熱海町にレース場出現か
このはなしは昨年8月ごろ、国際ナスカー・スピード・ウィーク会社の駐日代表者の代理人である今井吉高氏が、同地に旅行のため宿泊した際に、「ここは自動車レース場には最適な場所である」と見込み、磐梯熱海観光協会長の橋本善美氏に相談をもちかけたことから、急に進んだ。場所は磐梯熱海駅から南に約1kmほど入った涼山、蓮山の一部の330万平方メートルの敷地にほぼ決定したが、地元側はあまりにもはなしが大きすぎて・・・と半信半疑。今年に入ってから国際ナスカー・スピード・ウィーク会社の代表者である香島佑禎氏(東北国際ナスカー・スピードウェイ社)が現地を訪れ、一部の土地の貸借仮契約を、さらに1月18日には正式契約を結び、具体的な計画に着手した。東北国際ナスカー・スピードウェイ社は、米国のインディアナ・ナスカー社と提携し、東北地方での興行権をすでに得ており、同社は4月までにアメリカ資本、財界の協力を得て資本金1億円のカブシキ会社として発足する予定。コース延長は4km、総工費30億円をかけて、昭和45年度中に完成にまでもってゆき、スピード・レースを開催する予定。1周4kmのレース場のほかに、スケート場などの設備も作り、あわせて大駐車場も作る計画という。
(CARグラフィック 1967年 3月号より) 
詳細不明。
ネットの一部では詐欺では?という疑惑。 


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2013年1月21日月曜日

道川サーキット (秋田)

道川サーキット
距離:約700m
コース幅最大:12m
コース幅最小:6m

バーダルハイスピードジムカーナ東北シリーズ 秋田県岩城町道川サーキットで行われた4月25日のオープニングレースは大々的に催され、1000人以上の観客が集まりました。地元の全面的な協力で、レストハウス、宿泊設備もととのっています。今後一層盛んになる可能性大です。 
(オートテクニック 1971年 7月号)






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2013年1月20日日曜日

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ (青森県) -未完

(国土地理院 70年代の航空写真より)

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ

所在地:青森県上北郡野辺地(のへじ)町
距離:4.8km / ショートコース 約3km
コース幅:20m
コーナー数:4
左回り

3コーナー辺りにショートカットコースも作られる予定だったが、オープニングレースの時点では作られていなかった。
最終的に使われたかどうかは不明。

コースはJAF公認もされたが、スピード域が高い故に"出来ればもっとテクニカルなものにするように"という指導が入ったこともあったという。
コース脇がすぐ海な為、砂や海水がコースに入り込み、水没することもあったという。


(オートテクニック 1972年8月号より)



トレースした図 矢印で850mのレイアウト

むつ湾・インターナショナル・カートウェイ

(国土地理院 70年代の航空写真より)




むつ湾・スピードウェイに併設されたカートコース。
スピードウェイが閉鎖された後も使用されていたが、動物園閉鎖と共に閉鎖された模様。

オープニングレースは
「むつ湾スピードウェイ開場記念ねぶたまつり '72日本カートプリ大会」(1972/8/5-6)が青森県、青森ねぶたまつり協賛で開催されたという。
これがJAFが開催する日本初の"カートプリ"である。
1972年(昭和47)には国際交流の一環として'72日本カートプリが開催され、1973年(昭和48)には全日本カート競技選手権が開始されています。
http://www.jaf.or.jp/msports/intro/his_j.htm 


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川口オートレース場 (埼玉)

(国土地理院 1966年の航空写真より)
(国土地理院 1966年の航空写真より)川口オートレース場(1952-1967)

コース距離:800m
コース幅:30m
コーナー数:2
路面:ダート


現在は500mのターマック舗装オーバルとして使われているが、開場した1952年から1967年までは800mのダートオーバルとして使われていた。

"105マイル・クラブ"(後のNAC[日本オートクラブ])が運営していたストックカーレース
「ナショナル・ストックカー・レース大会」を4度開催している。
第3回からJAF管轄に入った為、現在でもリザルトを確認することが出来る。
http://www.jaf.or.jp/msports/results/n-race/index.htm
優勝ドライバーを見ると、後々の日本モータースポーツを担うドライバーも多数参加、優勝している事が分かる。

1965年3月28日 第4回ナショナル・ストックカー・レース




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2013年1月19日土曜日

木更津飛行場特設サーキット (千葉)

(※ 2013/02/19 追加)

(オートスポーツ 170年2月号より)
(1970年の航空写真)


木更津の米軍飛行場(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)の滑走路を使った特設コース。

以前からもジムカーナなどでのモータースポーツイベントで使用されていたが、当時の米軍飛行場の司令官がモータースポーツファンだった為に、この計画も軌道に乗ったようである。
コースは右回りの全長3.5kmだが、西のヘアピン部分の直線を増やすことによって、もっと長い距離にすることもできた。

1970年5月10日には、レース開催を計画していたグループ・オブ・スピード・スポーツ(GSS)による練習会も開催され、ポルシェ・カレラ6で1分29秒というラップタイムを記録していたようだ。

70年の夏ごろに、GSSは"東京湾100マイル"という160km程度のレースを開催しようと計画していたが、開催されていたかは不明。

(オートスポーツ 1970年2月号より)




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2013年1月18日金曜日

富士スピードウェイ / ナスカー・フジ・スピードウェイ (1) -未完


CARグラフィック 1963年 8月号 p115 スポーツ・ニュース 箱根にストックカー レーストラック建設か 

 最近いくつか新しいレースコースのうわさが聞かれるが、もっとも確実なのは箱根に建設されるストックカーレーストラックの計画である。
それは日本ストックカーレース協会と言う団体で、中心的な人物はスズカにも出場した塩沢進午である。
このトラックはスズカのようなロードサーキットではなく、アメリカ流のバンクの付いた楕円形周回コースで、ふだんは自動車による曲乗りを見せて人を集め、時々本当のストックカーレースを開催するつもりと言われる。


富士スピードウェイの前身となるオーバルコースの計画が立ち上がったのは1963年頃


CARグラフィック 1964年 7月号 p129 スポーツ・ニュース
静岡県小山に「ナスカー・フジ・スピードウェイ」 

日本でアメリカ式のストックカーレースを開催すべく昨年12月に設立された日本ナスカー社(資本金3億2千万円、代表取締役 森 長英氏)では、御殿場に近い静岡県駿東郡小山町に2.5マイル(4km)の楕円形トラックと6km以上のロードサーキットを持つ「ナスカー・フジ・スピードウェイ」を建設すると発表した。
完成は明年4月を目標としている。日本ナスカー社はアメリカ デイトナに本拠を持つNASCAR(会長ビル・フランス)と技術提携を行い、極東におけるナスカー方式によるレースの独占的開催権を獲得したという。
ちなみに、NASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing)はUSAC、SCCAと並ぶアメリカの大きな自動車レース団体で、デイトナ500を初めとする全米のストックカーレースを統轄している。 


NASCAR Fuji Speedway 及び付帯施設完成予想図 (CARグラフィック 1964年 8月号より)

東京サーキット / 八王子レース・コース / トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ (東京)

東京の八王子近くにサーキットを作る計画があったそうです。
その名も「八王子レース・コース」またの名を「東京サーキット」と言うらしい。

当時のオートスポーツを読むと
"八王子市と西多摩郡秋多町にまたがる秋川の河原一帯約215万平方メートルが建設予定地。外苑タクシーの張煥慶社長が目論んでいるものだが、イースタン観光系の資本も導入して来春までに一周5.5kmのサーキットを完成させたい意向だ。将来はこれにストックカー用の楕円コースも加えて総合的なモータースポーツ・センターを建設するという。"(AUTOSPORTS 1965年4月号)
とある。
この記事では「花ざかりのレース場建設計画」として、前回紹介した「NAC箱根スピードウェイ(伊豆スピードウェイ)」や現在も存在するスズキの竜洋町のテストコースを国際サーキットにする事など興味深い項目が並んでいる。
まだ日本には鈴鹿しかオープンしていない時代。



1年後のオートスポーツには「第4のレース・コース "東京サーキット"建設計画の全貌」と題して4Pの記事が掲載されている。
(この記事が掲載されているオートスポーツ1966年4月号は電子書籍化して販売しているので、興味がある方は買ってみるといいかも。http://www.as-books.jp/books/info.php?no=AST19660401)

第4のレース・コースというのは、この時点で既に鈴鹿に加え、船橋・富士がオープンしているから四番目という事である。
この記事では、これら3つのコースのレイアウトと一緒に「東京サーキット」のレイアウトが掲載されている。


レイアウトの基本設計を簡単にまとめると
  • おむすび型のオーバルのインフィールドにヘアピンやスプーンカーブを含んでいる。
  • 外周オーバルが3.2km、インフィールドを加えると4km
  • 幅員は12m
  • エレベーションは最高8%
  • オーバルのバンク角は8°~10°
とある。
コースの西側から西南側にかけて、一部が山林にかかっており、高低差のあるオーバルになるという。
ちなみにテクニカルコースとして知られるもてぎのオーバルも高低差があるそうだ。
それでも、最大8%勾配のあるオーバルというのはかなり特殊なのでは…

オーバルコースはシャーロットと同様の「おむすび型」のオーバルコースとして紹介されているが、絵は右コーナーが存在する豆の様な形をしている。
かつてアメリカには「Trenton Speedway」というオーバルコース(1980年閉鎖)があり、オーバルの中に右コーナーがあったが、東京サーキットでは実際に右コーナーを作る予定だったのか、それともポンチ絵がへろへろなだけだったのかどうかは定かではない。
ただ、これはあくまとして基本設計の段階なので、ごく初期段階であろう。


※Trenton Speedway












”<東京サーキット>の建設計画が世に出たのはいまから2年まえ。東京・千駄ヶ谷でハイヤー・タクシー会社を経営する張煥慶氏が提唱したものだった。さらに資金面で、イースタン観光(本社、東京・佐久間町)の藤本威宏社長が計画に参加、電通の島崎千里専務やJAF(日本自動車連盟)の竜村徳理事らが設立発起人、あるいはアドバイザーとして名を連ねるに及んでしだいに具体性をおびてきた。藤本威宏氏は一つ橋大出身のインテリジェンス経営者、父親の軍治氏は日本のオート・レース界の草分けとあって、<東京サーキット>にイースタン観光の資本が投入されることになったのは偶然とはいえないようだ。PR面は電通が担当し、強力な組織力にものをいわせてマスコミ対策を推進するであろうことは想像に難くない。”
(オートスポーツ 1966年 4月号より) 
 

ここで更にポイントなのが、イースタン観光の藤本威宏社長という人物がこの東京サーキットの方向性を決定づけたのではないかと思われる。
電子書籍化した関連の記事として、この号と連動したオートスポーツwebの記事の中でもこの藤本威宏氏の父親、藤本軍治氏の解説をしている。
http://as-web.jp/as_feature/info.php?no=44#11_0
"1922年(大正11年)から1926年(大正15年)まで11回の日本自動車レースが開催されているが、日本に自動車レースを始めさせる強力な推進力となった人はジョージ藤本こと藤本軍次だった。藤本は昭和に入り、多摩川スピードウェイを実現させるのに力を尽くした人でもある。
 6歳のときに渡米し、1910年(明治43年)頃からポンコツ車を改造してレーサーに仕立て、全米各地を巡業してまわっていたが、1922年(大正11年)にハドソン・レーサーを持って帰国。早速、当時の有力な新聞だった報知新聞社の煙山二郎企画部長を訪ねて自動車レースの必要性を説き始めた。 "
”常設の自動車レース場をつくらなければいつまでたっても会場難は解消しないと、大正時代の日本自動車レースを推進した藤本軍次と当時報知新聞社企画部にいた金子常雄が目をつけたのは多摩川沿いにあったオリンピア球場跡地だった。日本スピードウェイ協会を推進母体につくり、敷地の所有者だった東横電鉄(現在の東急)を口説き落として、1936年(昭和11年)5月9日、日本で初めての本格的なサーキットである多摩川スピードウェイが誕生した。"(日本モーターレース史/桂木 洋二 より)
と、日本初の常設サーキットである「多摩川スピードウェイ」建設にも関わっている。
アメリカのモータースポーツを見てきた人間が多少なりとも関わっていると思えば、この「東京サーキット」をオーバルコースとして設計されるのも納得ができる。

レイアウトは純国産の設計が自慢だという。
当時存在した鈴鹿・船橋・富士には大小なりとも必ずは外国人のアドバイスや設計が入っている。
"既存のサーキットのうち鈴鹿はモンツア(イタリア)を設計したハウゲンホルツの手が加わっているし、船橋はピエロ・タルフィ、富士はスターリング・モスの助言を得てそれぞれ設計されている。いずれも国際的レーシング・ドライバーや有名なサーキット設計者の名前を使うことによって、ある意味ではコースを権威づけているわけだが、いっさいを国内技術者の手でまかなっている。"
(オートスポーツ 1966年 4月号より)  
(この辺の考察も先ほどのオートスポーツwebの記事が面白いです。)
しかし、純国産設計というのは別の記事を読むと少々疑問に思うが、これに関しては後々。

ここでポイントなのがサーキットの立地。
"西多摩郡秋多町まで、現在は甲州街道を西へ進み立川市のさき(日野橋)から右へ折れてざっと20km。将来は日本道路公団が建設する国土縦貫道路の中央道・八王子インターチェンジからサーキットまで都道を直結することにしている。そうなると都心の京橋からサーキットまで法定速度で32分で直結されるわけだ、"(オートスポーツ 1966年 4月号より) 
現在は圏央道のあきる野インターチェンジもすぐ隣にあるので、都心からのアクセスは抜群である。
"総工費は20億円以上。既存のサーキットと同様莫大な建設費だ。サーキットを建設することは、将来日本のモーター・スポーツがさかんになるのを見越しての先行投資という性格が強いが、<東京サーキット>ではレース・コースと合わせてレジャー・センターを同地につくって、家族で楽しめる、いわゆるファミリー・ランドを設ける予定でいる。"(オートスポーツ 1966年 4月号より) 

本格的なサーキットが東京近郊に建設されようとしていたというのは驚きである。
都心近くからすぐに通えるサーキットがあったとすれば、関東の人々にもモータースポーツが親しみのあるものとなっていたのかもしれない。



1966年7月の「実業の日本」という雑誌でも、東京サーキットが取り上げられている。
"社名は「東京サーキット」(資本金六億円、社長、藤本威宏氏)、三月二十二日に設立され、さる五月二十七日、現地で起工式が行われた。"
1966年の3月には「東京サーキット」という会社が設立され、これは先のオートスポーツにもオフィスの写真が映っている。
実際5月27日には現地で起工式が行なわれたということで、多少なりとも何らかの建設が始まったであろう。
"サーキットを、東京に至近の地に経営するというのは、各社の夢であり、東急、西武などの大資本もさかんに土地を物色していたが、地価の点で東京近郊はひじょうなコスト高になり、結局、あきらめざるをえなかったといわれる。この点、東京サーキットは、三年半ほど前から、東京一円を探し回り、秋多町に白羽の矢をたてたわけ。秋多町は農村人口の若い層が土地を出て、サラリーマン化し、収穫量も減るなど、将来に問題をかかえていた。ところが、サーキット進出の話があったので、町側も地域開発ということで、全面的にバックアップし、町有地の三分の一で提供してくれたことが、まず成功の第一歩となったという。全面積の七割が町有地で、のこりの三割が私有地、その地主二百六十人との交渉が、三月中にまとまり、こんどの起工式となったわけだ。 "
当時の日本では、鈴鹿で開催された日本GPの成功を受け、レースイベントを日本各地で開催し、レジャー施設としての一環として様々な資本が様々な場所で建設計画を立ち上げたという。
前回紹介した「伊豆韮山サーキット」も日通の観光部門が立ち上げた計画だったし、船橋も巨大レジャーランド「船橋ヘルスセンター」内の一つの施設としてサーキットがあった。
鶏が先か卵が先かという差はあるが、鈴鹿・船橋には既に遊園地などレジャー施設など平行した経営も同時に行なっている。
サーキットだけでは採算が取れないというのは、今も変わらないだろうが、そういった事情があるのだと思う。
それにしても東急や西武のサーキット計画も知りたい。
"もう一つ、東京サーキットの計画は、レース場だけではなく、総合レジャーランド的な構想を含んでいることが注目される。東京にいまやただ一つ残された清流といわれる、秋川渓谷の河原ぞいに、長さ二百メートル、幅八十メートル、高さ二十七メートルのサマーランドと称する構造物を建て、冬でも二十八度℃の気温に保っておく。ちょうど常磐炭坑の温泉を利用して、熱帯樹を植え、話題になった「常磐ハワイアンセンター」と同じ着想だが、このサマーランドは規模的に約二倍の広さで、プールや演芸場などをつくり、都民のいこいの場所にしたい、というもの。もっともこちらは温泉ではないので、ボイラーでスチーム暖房というわけ。このサマーランドはことし十二月中にオープンされるという。
 このほか、自然美をいかした公園、多摩テックのような遊園地、あるいはサンケイ・アトムズのファームグランドを作るなど、多彩な計画がある。
 大株主に電通、TBS、フジテレビ、ブリヂストンタイヤ、トヨタ、日産、帝王帝都電鉄などの有名会社が参加しており、資金力も充分、現在、総工費二十五億円の計画予定で、建設がはじまっている。 "
すでにASWEBの記事でネタバレしているかもしれないが、結論を言うと「サマーランド」、東京サーキットの正体はまさに現在の「東京サマーランド」なのである。
東京サマーランドのサイトにある沿革を見ると

http://www.summerland.co.jp/corporate/enkaku.html
"1966年(昭和41年3月)3月健全で、健康的な娯楽の提供を目的としたレジャーランド開設のため、現在の東京サマーランドの前身である(株)東京サーキットを設立。"

と東京サーキットの名前を見つけることが出来る。
では、どの段階でサーキット計画は頓挫したのか。
詳しいことはわからないが、もう少しサーキットを追ってみたい。



一方、CARグラフィック 1966年 9月号ではこう紹介されている。
"名称は"東京サーキット"でスポーツ・センター計画の一環として造られるもので、この東京サーキット建設予定地には、中央高速道路が42年6月開通予定で工事が進められており、サーキット完成時期も同時期になるみこみ。
東京サーキットの設計は世界的に有名なコース設計者であるフーゲン・ホルツの他4人で、コースも大変おもしろくできておりスピードとテクニックの両コースをそなえた本格的なものである。 "
フーゲンホルツ他4人! 全然純国産設計じゃないじゃん!ってツッコみたくなる。
そして、先ほどの基本設計から多少進歩したであろうサーキットのデータも掲載されている。

<コース内容>
スピード・コース(外周) 3km
テクニック・コース(内周) 1km
幅 12~15m
登り最大勾配8%
下り最大勾配10%
カント 最大16度
カーブ:スピード・コース9カ所 最小半径70m
    :テクニック・コース7カ所 最小半径25m
観客席 6000人収容





そして、続報がCARグラフィック1966年12月号に「着工まじかの東京サーキット」として報じられている。

"鈴鹿、船橋、富士につぐわが国4番目の東京サーキットが、東京西多摩の秋川ぞいの丘陵地帯に作られると聞いてすでに久しい。正式の名は「トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピード・ウェイ」(資本金6億、藤本威宏社長)でサーキットの設計をフーゲン・ホルツ、P・タルフィ、マネー・ペニィ、バッチャ・カルトらに依頼中であったが、このほどそのデザインがほぼ決定した。
スピード用のアウト・コースはマネー・ペニィが担当(彼はデイトナ・ビーチ・スピード・ウェイを設計し、現在オクラホマ・テルサのサーキットを設計中のサーキット・コンサルタントである)、アウトコース内側のテクニック用イン・コースは、スターリング・モスがロドリグェス・サーキットを参考として設計をアドバイスしたという。最終的名設計図はまだ発表されていないが、アウトコースは全長2.4km、幅16~23m、最高エレベーション2.5%、登り下りとも各々1カ所ずつで、ほとんどフラットにちかい。高度差は10m、バンクは最高18%である。
イン・コースは全長1.2km、幅12m、最高カント5%以内。特徴は直角コーナー3カ所を有すること、400mのモーターサイクル用コースが続くなどである。
アウトとイン・コースは延べ4kmで、国際公認2輪コースとしての資格も可能である。
サーキットはインディアナポリスよりやや遅いが270~300kmのスピードが可能で、フォーミュラ・クラスも可能。アウト・コースにはガードレールは使用せず、コンクリート・ウォールによる幅30mのセイフティ・ゾーンをつくるという。コース以外の諸設備もまったくシンプルなものとなり、またサーキット周辺の交通などにもかなりの配慮が見られる。
来年8月オープン予定は、土工費が大幅に増えたため、やや遅れそうである。 "

正式名称としては「トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ」と非常にアメリカ然とした名称になっている。
それもその筈、外周のオーバルコースはチャールズ・マネー・ペニー氏が設計している。
このマネー・ペニー氏は記事の紹介通り、デイトナのオーバルを設計した人である。
そして、何より日本では富士スピードウェイの初期段階、オーバルコースとして計画されていた頃オーバルコースをデザインしたのもこのマネー・ペニー氏である。
※オーバル時代の富士スピードウェイ













このオーバルコースは2.4km=約1.5マイル、バンク角18%=約10°、最高高低差2.5%となんともオーバルらしいオーバルが設計されている。
しかも、インフィールドはあのスターリング・モスがメキシコのエルマノス・ロドリゲスサーキットを参考にしたであろうレイアウトが設計されていたという。
スターリング・モスの日本での関わりといえば、またも富士スピードウェイが思い浮かぶ。
日本ナスカー時代に視察に来たスターリング・モスは富士スピードウェイの土地を見て、「オーバルは無理だ、ロードコースにすべき。」と原型となるコースを設計したという。 それを元に富士スピードウェイが設計されたのは有名な話である。
何かの繋がりを感じさせずには居られない。
※富士スピードウェイの完成予想イラスト












そして、間は飛ぶが1967年の7月8日に屋内型レジャーランド「サマーランド」がオープン
どの様な経緯があったかどうかは分からないが、サーキット計画のみは頓挫し、サマーランドを始めとするレジャー施設はオープンし、現在に至る。


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GoogleMapで現在のサマーランド周辺を見ると、屋内プール施設のある東側と、グラウンドなどがある西側に分かれている。
コースの西側から西南側が海抜200mの山林とあるとなると、現在グラウンドがある西側がサーキット建設予定地だったのかもしれない。
そう思うと、オートスポーツに載っていた変な形のオーバルコースの形も見えてくるのではないかと思う。
結果的に形は変わっていたかもしれないが。

「トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ」と呼ばれるオーバルコースはどういうレイアウトだったのかというのは、恐らく当時計画に関わっていた人々のみでしか見ることが出来なかっただろうが、おそらく立派でエキサイティングなものだったのだろうと思いたい。
東京サマーランドに出かけた際はこの幻のサーキットに少しでも思いを馳せてみてはいかがだろうか。


もし、今存在していたら自分はよく通っているだろうな…というしょうもない結論でした。



[追記]
2つ上、CARグラフィック 9月号と同じ頃、バイク雑誌であるモーターサイクリスト 1966年8月号には当時のレイアウト案を見つけることが出来たので、掲載したい。

コースの内容としては、CARグラフィック 9月号に掲載されていたデータを参照してもらいたい。

一番はじめに掲載されたオートスポーツ1966年4月号のレイアウトと比べると、インフィールドセクションの場所は多少変化しているが、外周オーバルコースの形はほぼ変わらないでいる。
ひょうたん型の様なオーバルコースになるのだろうかと疑問に思っていたが、どうやらこの形はほぼ決定していたようだ。
改めて考えると、これは土地の問題もありそうで、サマーランドの横を流れている秋川に沿ったレイアウトになるのは既に決定していた事なのかもしれない。
ちなみに、ここでも来年夏オープンとされている。

※こんな感じ?                                                                          














                 


オートスポーツ 1967年8月号の船橋サーキット閉鎖に関する記事の末尾にも東京サーキットに関する記述が多少ある。
"いっぽう東京の西郊に建設が予定されている東京サーキットは、この7月オープンしたサマー・ランドの収益を建設費に当てることにしており、オープンは早くとも来年の秋という見通しだ。"

この頃既にオープンしていたサマーランドの収益を建設費に回すという事で、サマーランドがオープンした当初でも、サーキット建設の計画は進んでいたという事が分かる。
この記事では船橋サーキットの閉鎖に伴い、大きく開いていたモータースポーツの間口を再び狭めてしまうのではないか、という趣旨の記事である。
当時は鈴鹿、富士、船橋しかオープンしていなく、関東で活動しているドライバーにとって船橋サーキットというのはとてもありがたい存在であったのは確かだろう。 当然ながら筑波はまだ無く、3年後の1970年にオープンする。
その船橋に代わるサーキットとして、関東のドライバーに東京サーキットは当時大きく期待されていたのではないだろうか。

余談ではあるが、2輪でお馴染みのヨシムラだが、60年代には自動車のチューニングにも乗り出している。
そのため、工場を1966年に現あきる野市、つまり西多摩郡秋多町に移転したそうだ。
これはつまり東京サーキット完成を見越しての工場移転だったのではないだろうか。
前述の通り、東京サーキットにはオーバルコースだけでなく2輪車用のオートバイコースが計画されていた。
当時純粋に"2輪車にも"目を向けて設計されたサーキットは鈴鹿サーキットしか無く、富士で初めて2輪のWGPが開催された際も、30度バンクの使用に関して危険を訴えたホンダがボイコットするという事件も起きた。
そういう点を考えると、関東かつメーカーの縛りがない2輪サーキットというのはとても貴重である。
当然サーキット自体が少なかった時代ではあるが。
そういう事で、東京サーキット近辺が現在の富士スピードウェイ周辺のように関東のモータースポーツの拠点になり得た可能性もあったわけだ。


トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ/
東京サーキット/八王子レース・コースの流れ

1964 ?月       東京サーキット計画が立ち上がる
1964-5 ?月     東京八王子市から西多摩郡秋多町の建設予定地が決定
1966年 3月中     地主260人との交渉がまとまる
1966年 3月22日  ㈱東京サーキット設立
1966年 5月27日  起工式
1966年 11-12月  サーキットデザインがほぼ決定
             間もなく着工

1967年 7月8日  東京サマーランドオープン
(1968年 秋以降   トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ完成予定)

1970年 9月    ㈱東京サマーランド設立(東京都競馬株式会社 全額出資)

伊豆韮山サーキット (静岡)

伊豆韮山サーキット

1962年、日本で初の本格的な常設サーキットである鈴鹿サーキットがオープンし、翌年には第1回日本グランプリが開催され、日本でも現代的なモータースポーツが脚光を浴びた。
そして、各地でサーキット建設の計画が立ち上がった。
その中の一つ、伊豆韮山サーキットについて紹介したい。



船橋サーキットについて調べていると、ところどころに上がってくるワード「伊豆韮山サーキット」が気になったので調べてみました。
まず、船橋サーキットと伊豆韮山サーキットの関係ですが、両方ともコース設計にピエロ・タルッフィが関係しているということです。
ピエロ・タルッフィ

船橋サーキットのコース設計には元F1ドライバーのピエロ・タルッフィが関わっています。
船橋ヘルスセンターの狭い敷地の中を存分に使ったテクニカルレイアウトはタルッフィが作りました。

間髪入れずにピエロ・タルッフィがココ(船橋)にやってきて、この狭さでも充分にサーキットができると言うわけです。「それにしても、なんでタルッフィがすぐに来たんですかね。後になって、どこか別のサーキットの打ち合せで来たのがポシャって、で、コッチに来たんだという噂も聞きましたけどね」。(日本のレース100選 vol003 '65 船橋CCC)

「別のサーキット」これこそが伊豆韮山サーキットだったわけですね。
1965年のオートスポーツを読むと
伊豆韮山に目論まれていた日本通運のコース場建設計画は、用地問題で地元の反対にあい、一時ストップのようだが
とある。
残念ながら用地問題で頓挫してしまったそうです。
しかし、サーキット建設場所だと思われる場所が今でもあります。

大きな地図で見る「日本通運伊豆研修センター」というのがありますが、まさしくここが日本通運が計画していた伊豆韮山サーキット場の跡地でしょう。

もともとは日本通運が1964年に立ち上げた会社「日通伊豆観光開発」のレジャー施設の中の一つにサーキットがあったそうですが、上記の通り、用地問題でサーキットの計画は頓挫したそうです。

その理由を、日通伊豆観光開発の斉藤辰馬専務はこう説明する。「タルフィーに現地を見てもらったところが、理想的なレース場を作るには、どうしてもあと二十万坪はいるという。ところが土地を買い増ししても、地上権や、森林法で伐採ができないし、農地転換の問題がからんで来るので思うようにいかない。だから当時は、涙を飲んで計画を棚上げし、将来の捲土重来を期しているのだ」(財界 1965 4月 春季特大13より)

ただ、遊園地の計画だけは続いたらしく、1966年に「伊豆富士見ランド」として遊園地が開業したそうです。
しかし、その遊園地も1999年に閉鎖されたようです。
伊豆富士見ランド - wikipedia
その後の跡地が現在の日通伊豆研修センターという事だそうです。

同じ記事の中では、船橋の設計にあたり、日通の子会社の社長を通じ、タルッフィに依頼をした。だとか、そのまま伊豆韮山サーキットに関わっていた日通の役員が船橋サーキットの会社にそのまま派遣されている。という話も書いてあり、船橋サーキットと伊豆韮山サーキットの関係は思ったより深そうな感じでした。