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2013年4月24日水曜日

阿蘇インターナショナル・スピードウェイ(熊本県)

阿蘇インターナショナル・サーキット(仮称)
フルコース:6.01km
東コース:3.91km
西コース:2.18km



 九州にサーキットふたつ!?
このところ日本各地でサーキット建設計画の噂が絶えないが、最近になって、熊本と鹿児島でも同様の計画が進められている事が明らかになった。
前者は九州産交(本社・熊本市、岡陽一社長)が手掛ける「阿蘇インターナショナル・スピードウェイ」(仮称)。
阿蘇外輪山付近に1周6kmのコースで、レジャー施設を含めた総工費は70~80億円。64年度中に着工し、65年度中にまず東コースを完成させるという。
(カーグラフィック 1988年 9月号より)
(※昭和64年→平成元年・昭和65年→平成2年) 

熊本県阿蘇郡阿蘇町(現熊本県阿蘇市)に建設が計画されていたサーキット。
地元の九州産業交通が主体となっていた。

コース内容としては1989年中に東コースを建設し、第2期工事として続いて西コースを建設する予定だったようだ。

熊本のドライブコースとして有名な「ミルクロード」沿いに建設が予定されていたが、霧が多い他、国定公園法との調整でも手間取っていたようだ。

当時、この辺りでは建材(=レイトンハウス)が阿蘇市の西側に隣接する産山村にF1開催規模のサーキット建設計画を発表。
そして、北側の県境を超えた大分県上津江村では既にサーキットの着工に入っていた。
これが今の「オートポリス」である。

約15km圏内にF1開催が可能なサーキットが3つも計画されていたという、まさにバブル期のある種狂気じみた程のF1・モータースポーツバブルを象徴するような事柄だろう。


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2013年4月19日金曜日

大分県別府市特設コース/別府国際モータースポーツカーニバル(大分県)

ここでは国内モータースポーツ初の市街地レース計画「別府国際モータースポーツカーニバル」について取り上げる。

1982年9月のオートテクニックでは別府市で公道レースが行われ、F2かGCレースが行われるだろうといった趣旨の記事が掲載された。

数カ月後には詳細な計画が掲載され、F2レースを国際格式かつ全日本選手権、もう一つグループC等の耐久レース車両でのスプリントレースの2つがメインイベントとして開催される他、スターレット・パルサー・シビック等のワンメイク車両でのレースなども行われるとされている。

当初の計画では、特設コース内での4輪レースを行った一週間後、別府市から北西にある陸上自衛隊十文字原演習場を使い、4輪によるラリー・ダートトライアル、2輪モトクロスなどを行う計画もあったが、こちらは早い段階で計画から外されている。

他にも別府市内でのパレードや自動車展示会、映画上映、グッズ販売などレース以外にも沢山のイベントが計画されており、正しく「モータースポーツカーニバル」と言った様相であった。

計画では、別府市中心部から北東にある別府国際観光港の埠頭とちょうど目の前を通る国道10号線の一部を使う1周2.5km程度のコースの予定だった。
当時港は造成中であった。

レースコース略図 

メインレースとの一つとなっているのは当時国内で人気を博していた全日本F2選手権である。
当時全日本F2が行われていたのは鈴鹿・富士・西日本(現MINE)の3サーキットで、主に鈴鹿サーキットを中心に開催されていた。
この全日本F2選手権の1戦としてこの別府が組み込まれる予定だった。
国際格式での開催との事で、海外から選手などを招聘する意図もあったのかもしれない。
もう一つ、グループC規定でのレースが始まり、熱も高まってきた耐久レース車でのスプリントレースもメインレースとなっている。
このスプリントレースでは全国のサーキットを耐久・スプリント共に行いながら転戦していく「インタースーパースポーツシリーズ(仮称)」というシリーズ戦の1戦として組み込まれる計画だった。

この別府市街地レースを企画したのは別府市観光課である。
温泉旅行が下火になってきており、別府市への観光客が減ってきているという現状から町興しとしてのレース開催の計画であった。
別府では当時からハングライダー大会やマラソン大会などのスポーツ大会も開催しており、そのような流れでモータースポーツも開催出来ないだろうかという流れになったようだ。
当時の別府市長、脇谷市長も1982年のカーグラフィック12月号では
うちは観光都市ですから、人を集めなければならないわけです。ところが温泉地の全国的な傾向なんですが、若い人がだんだん遠ざかってしまっている。(中略)
特に今度は車、車は誰でも関心を持っているでしょうから、これまで以上に多くのお客さんを呼べるでしょう。6~7万人は期待していますね。もちろん、これは1回限りではなくて、少なくとも5年は続けてやりたい。そのために恒久的なコンクリートフェンスなども、市の予算をちゃんと組んで作らなければならないでしょうね。
と市としてもかなり熱心にイベント開催に取り込んでいる事をインタビューで語っている。

市と共に計画を進めていたのがVICIC(ビクトリー・サークル・クラブ)である
VICICは日本各地でレースのオーガナイザー、プロモーターとして活動しており、当時はWEC(世界耐久選手権)を日本に初めて呼び込み、その勢いで日本初の市街地公道レースを実現させようという流れである。
そこにWECジャパンではラジオやテレビなどのメディアでのプロモーションで関係していた広告代理店の電通も企画に参加している。

しかし、1983年のカーグラフィック3月号では早くもレースを1年延期するという記事が掲載された。
ここでは国道を使うことはやめる事になり、観光港の湾内道路と駐車場を使いコースを構成するのは変わらないが、レースを開催するには十分な敷地が確保出来ないということが分かり、拡張が必要との事で一年延期ということになった。

ここからしばらく計画は表沙汰に上がる事はなく、結局1984年1月のオートテクニックでは公道使用の警察との合意が進んでいなく保留という形になり、そのまま計画は頓挫したと思われる。

しかし、この別府のレースが契機となり様々な都市で市街地レースが企画されたとのことだ。



2013年4月10日水曜日

船橋サーキット (千葉)

船橋サーキット

距離:1.8km/2.4km/3.1km 左回り

コース幅:15.75m~9m(スクールコース 60m)

船橋サーキットは当時千葉県船橋市に存在していたレジャーパーク、船橋ヘルスセンター内の施設として存在したサーキットである。

(国土地理院 1966年の航空写真より)

コースのレイアウトは元F1ドライバーで、優勝経験もあるイタリア人のピエロ・タルッフィ。
タルッフィは当時、日通が建設を計画していた伊豆韮山サーキットのアドバイザーとして来日していたが、諸般の理由で頓挫し、その後すぐに船橋に来たようだ。
ファルッフィは他にもドライビングテクニックの講師として来日したり、ドライビングテクニック本が日本で翻訳されたりと日本に馴染みが深い。

(鎖線が3.1km/点線が2.4km/実戦が1.8km)
タルッフィのアドバイス通りに設計されたサーキットは埋立地をフルに使われたコンパクトでテクニカルなレイアウトである。
サーキットは主に外周コースと、インフィールドに設けられた60mもの幅を持つ舗装路のスクール・コースで成り立っている。この2つのセクションを組み合わせて主に3種類のレイアウトを作ることが出来た。

外周コースはホームストレートから多少下りつつ1コーナーを抜け、飛行場沿いにある約550mのストレートを進む。
その後S字カーブを抜け、靴下の様な形をしている事から名付けられたソックスカーブを抜ける。
ヘルスセンター名物の一つでもある「ゴールデン・ビーチ」と呼ばれる人工海岸を横目にダンロップブリッジをくぐり、最終コーナーを抜けて一周となる。 これが1.8kmのレイアウトである。

2.4km/3.1kmのレイアウトを使用する場合は、ダンロップブリッジ前の分岐を左に曲がり、スクールコースをそれぞれ抜けてからホームストレートと互い違いになっているピット前のストレートに進む。
そこから右コーナー、左ヘアピンと進み、元の外周に戻ってくる。
このレイアウトの場合はグランドスタンド前を2度通って1周してくることになる。

スクール・コースではジムカーナ等が開催され、やろうと思えば外周コースとスクール・コースでそれぞれ2つのイベントを開催することも出来た。

(勾配表 殆んど平坦である)
当時は鈴鹿サーキットが1962年に開場し、近代的なサーキットとしては日本2番目に開場した。
ちなみに富士スピードウェイは1966年開場である。

(建設中の船橋サーキット)

1965年の7月1日に船橋サーキットが開場した。
船橋サーキット最初にして最大のレースイベントとなったのが、船橋サーキットのオープニングイベントにもなった全日本自動車クラブ選手権レース大会通称、船橋CCCレースである。
7月17-18日に開かれたこのレースは、当初5月に鈴鹿サーキットで開催予定だった第3回日本グランプリが急遽中止になったために開かれた代替レースだった。
自動車クラブ対抗戦として行われたこのイベントだが、このイベントが船橋サーキットを語る上で欠かせないイベントになっている。
その中でも、浮谷東次郎の駆るトヨタスポーツ800、ロータス・エランでの雨中の激走が今でも語り草になっている。
詳細は船橋CCCレースに関するWebページや「日本のレース100戦」などを参考にして貰いたい。



船橋CCCレースの様子



都内から近い地の利を生かし、レースイベントの他にも自動車クラブの練習場として使われたり、レンタカーでの走行なども人気を博していたという。
ちなみに当時の記録によると、スポーツ走行が1時間1500円、レンタカーは1周180円である。(1965年の参考:ビール120円、たばこ30円)

しかし、開場から3年ほどになる1967年の春頃からサーキットがオートレース場になるという噂が立った。
当初は否定していたものの結局はサーキットは閉鎖され、オートレース場として転用されることになった。
当時、船橋オートレース場は北東にある船橋競馬場の内側にダートコースとして存在していた。
ちなみに日本最初のオートレースが開催された由緒正しき場所でもある。
しかし、オートレースが舗装化されることにより、代替地の検討が始まっていた。
そこで船橋サーキット側の方からサーキット敷地を移転先として提案したそうだ。
その背景には、サーキット経営での採算が取れないという問題や、イベント開催に関してJAFとの確執などもあったという。

結果、1967年7月31日をもって船橋サーキットは閉鎖される事になった。
3年間の間に三十数レースが開催された。

その後、サーキット跡地に建設された船橋オートレース場はサーキットの丁度ホームストレート・ピット辺りにコースが出来ている。
開場当初からしばらくは船橋サーキットのグランドスタンドがそのまま利用されていたようだ。

現在は船橋ヘルスセンターも閉場し、跡地はららぽーとTOKYO-BAYとなった。
サーキットの跡形はなく、オートレース場のコース、駐車場、一般道になっている。
ソックスカーブ辺りは京葉線・東関東自動車道が通っている。
辛うじて当時のプールに沿った辺りの駐車場の形状でサーキットの形が多少分かる程度である。
噂では駐車場の舗装が剥がれている所から当時のサーキットの舗装が覗いているとの事もあるそうだ。

東京から1時間以内で行ける本格的サーキットとして2年のわずかな期間のみ使用された幻のサーキット。
その2年の間に当時のライセンス保持者の1/3がこの船橋サーキットで取得したと言われている。
現在に繋がる日本モータースポーツ史の中でも重要な場所の一つであることは間違いないだろう。



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2013年3月9日土曜日

西仙台ハイランド/仙台ハイランド・レースウェイ(宮城県)-未完

西仙台ハイランド・レースウェイ/仙台ハイランド・レースウェイ

西仙台ハイランド・レースウェイ(現 仙台ハイランド・レースウェイ)は1986年9月13日にオープンしたサーキットである。

サーキットの計画は1985年10月に西仙台ハイランドを運営する㈱青葉ゴルフが計画を発表している。
元々、遊園地やゴルフ場の他にカートコースが先にオープンされており、全日本戦なども開催されていた。

当初の計画では、全長3761.08mのコースとして発表されている。
(AS 1986年3月1日号より)
コースはヨーロッパ式のロードコースで、ブーメランのような形状をしている。
標高差は約20mで、コース幅も12~15mとごく標準的である。
当初からFIAの国際コース公認を取得する為に設計されていた。
つまり、何らかの世界選手権の開催を前提として、設計段階からJAFだけでなくFISA(国際自動車スポーツ連盟)などとも連絡を取り設計されていた。
その為、当初のレイアウトから、安全上の理由の為数度レイアウトの改善を求められている。

(AS 1986年6月1日号より)

当初、1986年5月末にコースが完工予定だったがFISAからの改善指示により、完工が8月、オープンが9月にずれこんだ。

その後、更にレイアウトの改善があり、ついに西仙台ハイランド・レースウェイが完成、オープンとなった。
(1988年の航空写真)
結果、コース全長は3771.9m、最大標高差37.3mのコースとなった。


オープニングレースとして、全日本ツーリングカー選手権第4戦が開催された。

翌年、1987年WSPCの仙台ラウンド「ワールド・スーパースプリント・イン仙台」は9月27日に富士スピードウェイで行われるWEC-JAPANの翌週である10月4日に予定されていた。
このレースには富士のWEC-JAPANの耐久から一転、名前の通り約360km(96周)のスプリントレースとして、行われる事となっていた。
仙台市と仙台市教育委員会が全面バックアップし、仙台市内のアーケードにてグループCカーの展示やパレードが行われる予定だったなど、仙台市も万全の受け入れ体制で臨んでいた。

しかし、富士のWEC-JAPANの終了直後に急遽仙台ラウンドのキャンセルが決定された。
コースの安全性が確保出来ず、国際レースコースとしての条件を満たしていないため。というのが理由だった。

開催に先立ち、FIAやJAFなどがコースの視察に訪れ、コースの改善点などを指摘しサーキット側も対応していたが、一部FIAとJAFでの改善点の基準の食い違いがあったという事もあり、プロモーターや運営会社の責任だけでなく、JAFなどにも落ち度が合ったのではと当時のモータースポーツ雑誌などでは指摘されている。
国際格式ではなくJAFによる国内格式によるレース開催も考えられたが、結局最初で最後となる仙台ハイランド・レースウェイでの世界選手権は行われることなく終わった。



8:45頃から当時のCM


つづく。

2013年3月6日水曜日

大朝国際サーキット(広島県)



大朝国際サーキット

広島の新サーキット、92年にオープン予定 サーキットを核としたレジャーおよび健康のための施設「ナムアLAND」の開発準備室として87年10月に設立された㈱ナムアでは、「大朝国際サーキット」を92年10月にオープンする予定との正式発表をした。
計画では、3.7km以上の国際格式サーキットのほか、精神のやすらぎを見つめる「聖地」をはじめ人びとが集い、食べ、遊び、やすらぎを見つける「ナムアハウス」、オートキャンプ場、スキー場、スポーツ村、食べ歩き村、ファッション村、ペンション村、健康村、国際交流学校などの施設を10年計画で進めるとのこと。
すでにサーキット用地の40万ヘクタールについては買収済みで、予算は45億円。最終的には85億円に達するという。
大朝町役場・企画室長の斎藤氏は「まだ協議段階であり、開発申請もまだです。しかし、町としては枚向きに検討を進めています。このような施設の場合、周辺の交通問題も出てきますので、県と共同で検討していきます。現場は森林地帯ですが、周囲に集落がふたつあり、約200人の住民の、騒音問題などこれから調整が進められると思います」といっている。
なお、「大朝サーキットクラブ」の理事長は横浜大洋ホエールズの古葉竹識監督、コース設計アドバイザーは、元レーシングドライバーの藤田直廣氏。「横浜にサーキットを建設するという話で協力しました。安全性が高く、高速コースをと考え、ストレートを長めにしました。アップダウンの関係でまだわかりませんが、平均速度がF3000クラスで180km/hくらい。鈴鹿よりも高速コースですね」と藤田氏はいう。
広島市内から50kmに予定されている「ナムアLAND」が、モータースポーツファンの「楽園」となることを期待したい。
詳細不明




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2013年2月19日火曜日

SSPジムカーナ場(神奈川県)


SSP(セントミ・スピード・パラダイス)ジムカーナ場
(※一部にサカイ・スピード・パラダイスとの表記もある)

(オートスポーツ 1970年2月号より)

外周230m
幅員:最大 6.5m
        最小 5.5m















東京近郊にジムカーナ場出現!! 
船橋サーキットが閉鎖されて以来、東京近郊には適当なコースがなかったが、このほど千富美観光㈱が、神奈川県川崎市鉄(くろがね)町にジムカーナ場(名称SSP)の建設を進めている。国道246号線から少しわきにはいったところで、二子玉川より車で15分、コースはリトルFISCOのようで、全長330mだから規模は大きくないが、将来拡張も考えられるということだ。オープンは10月中旬の予定。ここがオープンされれば、関西びわ湖スピードランドと並んで、関東のジムカーナのメッカになるだろう。 
(オートテクニック 創刊号より)
(1970年の航空写真より)

1970年12月14日にオープンしたジムカーナ場がこのSSPジムカーナ場である。
神奈川県横浜市緑区の田園の中を入った場所にあったこのコースの規模かなり小さく、用途通りジムカーナ以外には使えないような小さなサーキットであった。
それでも、当時としては都心に近くリーズナブルで騒音問題にも影響されないコースとして、関東のジムカーナ同好者にはかなり重宝されていたようだ。

外周の大きな円を描く30Rコーナーは14度のカントが付けられており、小さな円とそれを突っ切る十字、S字が組み合わされている。

千富美観光(株)が所有しており、代表の酒井氏がジムカーナによる自動車運転技術の向上をかかげ、酒井氏の弟とともに田んぼを潰して整地作業に励んだという。
その後、聞きつけたジムカーナフリークが共に整地作業に参加し、コース基礎、舗装、パドック以外はすべて自分でこしらえたという。

少なくとも2-3年は関東のジムカーナの拠点の一つとして毎月盛んにイベントが開催されていた。
しかし、1974年頃に地域の開発に巻き込まれ取り壊されてしまったようで、住宅地となり跡形も無い。
現在は横浜市青葉区すすき野という地名になっている。



※大体の位置

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2013年2月14日木曜日

球磨郡山江村のサーキット(熊本県)


熊本県南部にサーキット建設構想 
九州自動車道の延伸見越して 
 熊本県南部の球磨郡に自動車レース用のサーキットを建設する構想が浮上してきた。このほど株式会社になった地域おこし組織に新相良藩カンパニー(本社熊本県人吉市、社長田中信考氏)が誘致しているもので、レーシングチームを所有している企業に働きかけを強めている。その企業は担当者を球磨郡山江村に派遣して、用地取得の打診を始めた。サーキットは一周4キロメートル程度で、100ha程度の用地を考えている。用地費は約1億5,000万円の見込みだが、関連投資を含めると総事業費は40億~50億に上るとみられている。現在は八代市まで開通している九州自動車道が64年に人吉市まで延びるのを見越した構想で、レースを月に2、3回、1回に2万~3万人の観客を集めたいという。(日経地域情報 1987年8月)



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タチバナサーキット(福岡県)

タチバナ・サーキット

九州に国際サーキットの建設計画が進行中

福岡県立花町辺春に国際サーキット建設の計画が進行中だ。
この「タチバナ・サーキット」(仮名)は、モータースポーツファンの平田博氏が立案したものだ。国道3号線沿いの山林120ヘクタールに、全長4km、コース幅12~15m、5万人の観客スタンドを65年末までに建設の予定。総工費は60億円、レジャー施設などの付帯設備を含めると90億円に達する。
昨年10月にそれまでの会社を退社した平田氏が、企業回りをした結果、日本舗道を始め、地元企業など5社の出資が可能になったとのことだ。
すでに地権者の同意を得ており、立花町役場では調査研究会を設立して協力する方針だ。
熊本、大分などもサーキット建設の計画が進められている九州だが、それぞれが順調に建設されると、まさに九州はモータースポーツ天国となりそうな気配だ。
(オートスポーツ 1988年 8/1号)

詳細不明



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2013年2月12日火曜日

可児市瀬田のサーキット(岐阜県)



中京圏に新サーキットが誕生か 
岐阜県の美濃加茂市近くに、いま新サーキット建設の話が具体化している。
これは筑波サーキットのオーナーである(財)オートスポーツセンター(椎名三郎理事長)が、岐阜県可児郡可児町の瀬田地区に計画したもので、現在地元の可児町と話し合いを進めているところ。
関係者の話を総合すると、これは関東に筑波サーキットを建設したのと同じ目的で関西・中京地区の人口を対象にサーキットをつくろうというもの。
その目的とは、公益法人である日本オートスポーツセンターの設立趣旨に沿ったもので、①わが国にはモータースポーツの適切な施設が完備していないため、外国ほどの隆盛をみていない。そこで、公共的施設を設置することによって、国内モータースポーツの普及を図る。②レーシング・マシンなどの性能向上を図ることによって国民の心身の健全な発達と、自動車および関連産業の振興に寄与する―――ということがその主の理由。
すでに10万坪(33万㎡)の用地を手に入れ、今年度から約4億円の予算で第一期工事にとりかかる。完成するのは48~49年度になる予定で、建設費用は15億円の巨額なものになるという。
サーキットの概要は、全長2km強、800mほどの直線を含む高速コースで、ヘヤピンは設けられないもよう。
将来はオーバルコースを付加するもくろみもあるようだ。
高速パターンをとり入れたのは、モータースポーツを盛んにするだけでなく、自動車関連技術のレベルアップを図る目的から、直線にアップダウンを設け、登降坂高速試験路とする構想があるからだという。
いずれにしても、過去の国内になかったようなサーキットが誕生することはまちがいあるまい。むろん、レースもひんぱんに行われるだろうから、中京圏のモータースポーツのメッカになることが期待されている。
もっとも、この建設計画にまったくの問題がない―――というわけではない。
というのは、地元民の一部に騒音や交通公害などを心配する声が出ているからだ。
これにともない、瀬田地区では代表を鈴鹿サーキットに派遣して実情を調べたが、その結果は"条件付きの受入れ"に傾いているという。
その条件とは、交通渋滞や騒音公害の防止と、現在スレちがい不能の取りつけ道路を描幅するぐらいのため、オートスポーツセンター側でも万難を排して取り組むといわれており、関係者は「今度こそ本当にサーキットが出来る」と一様に太鼓判を押している。
(オートスポーツ 1972年2/1号)

財団法人日本オートスポーツセンター(JASC)は一般的には筑波サーキットを運営していると言えば分かりやすい。
1970年の6月に筑波サーキットがオープンし、当時としては数少ない首都圏のモータースポーツの中心として使われ続け、現在も人気のサーキットだ。

筑波オープンの2年後にはJASCが岐阜県可児(かに)郡(現 可児市)にサーキットを建設する計画があったそうだ。
サーキットの計画の中では、2kmと筑波サーキットとほぼ同等の大きさではあるものの、筑波サーキットのテクニカルなキャラクターとは別に、オーバルも含む高速コースにする計画だったそうだ。
スポーツ用途だけでなく、試験路としてのテスト用途としても使えるようにする事が記事からも伺える。

現在この瀬田周辺には大きな公園が建設されているが、ここが建設予定地だったのではと推測。



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2013年2月10日日曜日

猿ヶ京サーキット(群馬県)


猿ヶ京サーキット

猿ヶ京サーキット8月オープン
国道17号線猿が京にジムカーナ、カート併用コースがオープンする。
全長約1km、幅6~8mの舗装路、群馬県の三国山の東京より、赤田湖を眼前とする場所にあり、四季を通じて使用できるサーキットである。
この地方のモータースポーツファンは多いところから猿ヶ京レジャーランドに新たに開設されるものである。なお、当サーキットでは会員システムをとり、モータースポーツに力を入れていく方針で、ライセンス取得講習会、公認レースへの参加など企画している。オープンは8月上旬の予定で、仕上げを急いでいる。
群馬県利根郡新治村吹路新三田大橋下
(オートテクニック 1970年8月号より)
(※赤田湖→赤谷湖?)

建設されず?
住所と場所から、恐らくここら辺が建設予定地と推測。
(国土地理院 1971年の航空写真より)



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2013年2月9日土曜日

南国スカイサーキット(高知)

南国スカイサーキット(仮称)

四国高知にサーキット建設計画1周6km、'89年にオープン予定
サーキット建設候補地として上げられているのは高知市内から国道32号線を20kmほど高松方面にむかった高知県香美郡土佐山田町の山間部。サーキット建設を進めているのは大阪の不動産会社「タケモト産業」で、国道32号線から東側の山林52ヘクタールが対処うち。
このうち26ヘクタールが町有地ですでに売却の仮契約は済んでいるとのこと。この土地を選んだことについて同社では、全国的なサーキット不足に加え、本四架橋や四国横断自動車道の建設計画が進み立地条件として土佐山田町が最適だから、というもの。
具体的なコース図はまだ発表されていないが、全長6~7km、5万人規模の観客収容能力を持つ国際公認コースを予定している。このため、同社では南国スカイサーキットという新会社を設立することになっており、総事業費は約60億円、早ければ2年後の89年に完成、オープンさせたいとしている。
地元の土佐山田町は誘致に極めて積極的で、小野進町長も「実現すれば、竜河洞の数倍の人出が予想でき、観光面はもちろん地域活性化などメリットは極めて大きい」と大賛成。
果たしてどのようなサーキットができるのか、今後の動向が注目されるところだ。
(オートスポーツ 1987年7/1号より)


大阪の不動産会社については、倒産したとの情報がある。

大体この辺りの山林ではないかと思われる。



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日本平スピードウェイ(静岡)

日本平スピードウェイ

距離:オーバル/850m or 870m
        オーバル+インフィールド/約1300m
コース幅:オーバル/18m
             インフィールド8~12m
バンク角:8~12°
(※13/02/13 追加改訂)


日本平スピードウェイは1971年ごろに静岡県静岡市に建設が予定されていたオーバルコースである。
当初は日本平サーキットとして、計画されていた。

(1971年 国土地理院の航空写真より)

日本平サーキットが建設中
 静岡県の日本平に、現在、サーキットが建設されている。サーキット名は"日本平サーキット"といい、久能山のとなりの山の上なので、静岡市街、駿河湾などが一望のもとに見下ろせる風光のすばらしいところ。
 コースの1周は1600mで、外周だけだと約800mのおむすび型。幅はピット前の直線部が12mで、あとは8m。もっとも、直線部がピット、パドックと一体になった平面舗装になるため、ここでジムカーナもおこなえる。オーナーがある建設会社なので、3月末までに完成させ、4月初旬のオープンを目指している。当面は、ミニカー、F-J、カートなどのレースのほか、ジムカーナなどを開催していく予定だが、東名高速道路の静岡インターから10分という至近距離にあり、今後の発展が見込まれている。
(オートスポーツ 1971年3月号)


 当初から、オーバル風の外周コースも計画されていたようだが、後述するNAC代表の塩澤氏の手によって、本格的なアメリカン・オーバルコースとして計画が変更された。

全面バンクつきの"ミニ・デイトナ"日本平スピードウェイ 
先月号のスポーツ短信欄で"日本平サーキット"とおつたえしたが、その後、コース内容が全面バンクつきのアメリカン・タイプに変更されたため、名称も"スピードウェイ"とあらたまった。これにより、完成時期もいくぶんずれ、4月初句のオープン予定が4月18日に順延された。
 コースの外周は、デイトナ・タイプのおむすび型で、1周は850m。ここには80から12oのカ
ントがついており、まったく新しいタイプのストックカー・レースなどが期待されている。インフィールドは、フラットなヨーロッパ・タイプのテクニカル・コース。こちらまでを含めると1.3kmのコースになる。コース幅は、外周部が15mで、インフィールド部が10m。
 なお、カント部の外側には3m、内側には10mの待避ゾーンが設けられ、3mの、ノーンの外側にはコンクリ-トのウォール(外壁)がつくられるところなどもデイトナにそっくり。段のついたメインスタンドはその外側にコースをかこむようなかっこうでつくられるわけだから、まさにスリバチ型になる感じだ。スタンドの収容人数は1万2000人が予定され、駐車場も1700台まで駐車可能。
 4月18日のオープニングにはストックカーのトロフィーダッシュ・レース(日本オートクラブ)とカート・レース(静岡カータース)が予定されているが、5月1日-2日には呼びもののストックカー日本平300マイル(日本オートクラブ)が開催される。もちろん1日が予選で2日が決勝となるが、これにはミニ・セダン・レースも組まれている。
 場所は東名高速道路・静岡インターチェンジの出口から左-左と曲がっていった山の上で、山ののぼりくだりは2本の道路による一方通行路にすることが考えられている。
(※ただし、インフィールド・コースはまだ設計変更される可能性が大きい。また、天候によってはオープンが延期されることもありうる) 


■日本平スピードウェイ
 静岡県日本平の隣に新レース用トラック、日本平スピードウェイが建設されている。このスピードウェイは、わが国では初のオーバルな形状を成すもので、各コーナーには最高12°のカントがつけられている。コース距離はインフィールドを含めて1.3kmとなり、コースの幅員は外周が18mで、インフィールドが8~12mである。観客収容人数は1万2000人で、ピット数は22。
 このスピードウェイのオーナーは、地元の山本開発工業で、4月18日にオープニング・カートレースを行なう予定であり、当面はライセンス講習会、カートレースなどを開催するとのことである。
 なお、ストックカー・レースの主催クラブとして有名なNAC(日本オートクラブ)が5月2日にこの新設スピードウェイでストックカー・レース シリーズ第2戦、ストックカー日本平300を開催する。最初、シリーズ第2戦は全日本選手権シリーズ第4戦と同時に北海道スピードウェイで行なう予定であったが、急遽日本平スピードウェイに変更になった。日本平スピードウェイの12°バンクつきオーバルコースとストックカーのコンビネーションは、きっと本格的なレース内容を展開するに違いない。
(カーグラフィック 1971年 5月号)

オートスポーツ 1971 4月号より
当初からインフィールドのロードコースも作られる事になっていたが、最終的にはこの形になったようだ。

(こんな感じ?)
ストックカーレースはアメリカだけのレースではなかった。60年代~70年代前半にかけて、日本にもストックカーレースが存在した。
そのストックカーレースのシリーズをオーガナイズしていたのが日本オートクラブ(NAC)である。
サーキットが鈴鹿しか存在しなかった最初期は関東のオートレース場で開催されていたが、日本にサーキットが出来るに従い、全国各地様々な場所で開かれた。
しかし、ストックカーレースというアメリカの形式に習い、例えば富士スピードウェイは右回りではなく、左回りのショートコース(30度バンク無し)を使用したり、筑波サーキットも当時存在していた左回り1.3kmショートコース(バックストレート途中から、現バイク用シケイン辺りに繋げる)を使用していた。

そんなNACの代表である塩澤進午氏がこのオーバルコースを設計したのだ。

その塩澤氏はアメリカ式のレースを日本に導入しようと日本のモータースポーツ初期から活動していた。
富士スピードウェイの最初期に計画されていたオーバルコースや、現在の日本サイクルスポーツセンター近辺に建設が予定されていた"伊豆スピードウェイ"など、様々なオーバルコース計画に関わっている。

塩澤氏の著書"日本モーターレース 創造の軌跡"(ネコ・パブリッシング)にもこの日本平についての記述があるので、いくつか抜粋したい。

9月に入ると待望の私のホームスタジアムが出来る可能性が高くなりました。静岡の日本平の岡のすそに1万5千人収容のグランドスタンドのついた一周870mのオーバルトラックの建設工事が始まりました。
日本平スピードウェイです。レーストラックのデザインをオーナーの山本昭氏が私に一任して下さいました。(日本モーターレース 創造の軌跡より) 

本の内容によると、このサーキット建設は70年の9月頃から始まったようである。
コースのデザインも塩澤氏が担当し、日本最初のオーバルコースとして、産声を上げようとしていた。

が、サーキット周辺にあった静岡大学の寮から騒音等の反対運動が始まり、次第に反対の声が大きくなっていった。
結果、アスファルトを舗装するだけという完成一歩手前でサーキット計画が白紙に戻ってしまったのだ。

オートスポーツ 1971年4月号より

ストッカー日本平300中止
静岡県下に建設中だった日本平スピードウェイは一部地元民の反対運動等の諸事情により一時造成工事を延期することになり、5月2日オープニング記念として開催がよていされていたNAC(日本オートクラブ)主催、ストッカー300キロレースは時期的に開催不能となり、中止となった。
 本レースは5月3日北海道スピードウェイで開催予定のものを急遽、日本平スピードウェイオープニングに合わせて静岡開催に変更、そしてこの中止ということで、関係者に多大のショックを与えている。
 日本平スピードウェイはアメリカで絶大な人気を集める全米ストッカーレースシリーズのレーストラックを模した本格的なオーバルコースとして注目されていたもので、既にグランドスタンド、バンク走路の造成も完了し、2週間を要する舗装工事を残すのみであった。
(オートテクニック 1971年5月号)

 然し舗装用の大型機械のアスファルト フィニッシャーを入れた頃、1000mも離れていた静岡大学の寮の人達が、反対運動を始めたのです。やがて連日、その反対運動を新聞が記事にしました。その結果、市役所が指導に入り計画を諦めることになったのです。その後その場所は9ホールのゴルフ場に転用され現在に到っているのです。
(日本モーターレース 創造の軌跡より)

他にも、最初の計画では「交通公園」を作るという計画と近隣住民には説明されていたのだが、実際にはサーキット建設だった事から抗議運動が起こったという経緯もあるようだ。
その抗議運動によって市が動き、工事が中止されたのだが、その経緯には当時の地方選挙の政治的駆け引きとして使われたという説も流れている。

コースの廃止後は一度オフロードイベントに使われたようではあるが、詳細は不明。
以上のほか、ことしはSPAC(駿河プレイ・オートクラブ)が静岡市にあるもと日本平スピードウェイの建設予定地近辺でオフロード・トライアルをやるという。
こちらの路面は赤土。
(オートスポーツ 1972年2/1号)
その後は「大谷ゴルフ場」というゴルフ場として利用されている。
現在も現地に行くとうっすらとオーバル跡のようなものが見えるという噂だ。

それにしても、日本のモータースポーツ界でも、ここまでサーキットが建設されていながら、直前に工事が中断されてしまうというのは他にはないのではないだろうか。
後一歩届かなかった日本平スピードウェイ、実現していたら、日本初の自動車用オーバルサーキットとして有名になっていたことだろう。
確認出来る範囲では、74~75年には既にゴルフ場になっている。
(1975年 国土地理院の航空写真より)



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2013年2月5日火曜日

インジェ・インターナショナル・サーキット(韓国)

インジェ・スピーディアム/インジェ・オートピア(韓国 江原道)
Inje Speedium / Inje Autopia
距離
国際コース-4,207m
北コース-2,577m
南コース-1,375m

スーパー耐久シリーズでは今年から海外戦が2戦行われることになっていたが、PenBayのレースは調整中になってしまった。
そこで、ここでは韓国戦で使用されるサーキットについて簡単に触れたい。

スーパー耐久では5月26日の第2戦に組み込まれているのがこのインジェ・オートピアである。
他にも8月の前半にアジアン・ルマン・シリーズ、8月後半にはスーパーフォーミュラも開催される予定だ。


(下に掲載されている高低表は微妙に正確ではないようだ。)

山間に作られたこのサーキットは、全長4.2km、コーナー数20のサーキットで、FIAのグレード2認証を受ける予定。
最大高低差は約40mあり、アップダウンはかなり激しいものとなるだろう。

前半は上下の激しい区間である。
ホームストレート後半から徐々に下り始め、ターン1-2まで下りながらの高速右コーナーを抜け、ターン3から10%の登りである。
ターン2付近の標高が一番小さい。
ピットレーンはターン1-2-3の内側を通り、ここで合流する。

登り坂を登り切った辺りにターン4のヘアピンがあり、立ち上がってからすぐに9.3%の下りに入る。
その後もターン5a-5b-6と下ってから上る左複合コーナーが待っている。

ターン7を抜けた後の直線も少しずつ登り続け、大体ターン8辺りでコースの標高が最大となる。
アウト側にはホテルとコンドミニアムがそびえている。
ここからは10-11-12-13と細かいコーナーが連続し、途中からコースは下り始める。
下に掲載した動画は12コーナー辺りから分岐しホームストレートに戻ってくる北コースである。

南コースに入ると下りながら高速-中速コーナーが続き、ターン17辺りで下りから登りに変わる。
南コースのピット前のストレート前も登りが続き、最終コーナーでその頂点を迎え、そこからコントロールライン手前までまた下っていく。



(※北コース)

このレイアウトの設計は、主に北米でのサーキット設計に広く関わっているウィルソン・モータースポーツ社の設計だ。
この会社はアメリカのミラー・モータースポーツ・パークやバーバー・モータースポーツ・パークなどを設計している。
http://www.wilsonsaharamotorsports.com/

初期案? 
韓国の国際イベントといえば、「コリアスーパープリ」と呼ばれる国際F3レースが昌原(チャンウォン)市の市街地コースで開催されていた。
これは1999年から2003年までマカオGPの直後に開催されていたもので、ジェンソン・バトンやルイス・ハミルトンなどもこのレースに参戦した経験がある。

初期案?

以前にもチャンプカーを誘致した事があるが、すべて事前にキャンセルとなり実現していない。
2010年に韓国国際サーキットにて最初のF1韓国GPが開催されたが、様々な問題が発生し悪い意味で注目されてしまった。


初期案?

韓国のモータースポーツはまだ発展途上ではあるが、F1が起爆剤となりモータースポーツへの関心が高くなってきているようだ。





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都城オートスポーツセンター(宮崎) [追記あり]

都城オートスポーツセンター (仮称)
距離:4.85km
 九州にサーキットふたつ!?
このところ日本各地でサーキット建設計画の噂が絶えないが、最近になって、熊本と鹿児島でも同様の計画が進められている事が明らかになった。
前者は九州産交(本社・熊本市、岡陽一社長)が手掛ける「阿蘇インターナショナル・スピードウェイ」(仮称)。
阿蘇外輪山付近に1周6kmのコースで、レジャー施設を含めた総工費は70~80億円。64年度中に着工し、65年度中にまず東コースを完成させるという。
後者は霧島山麓の山林を利用する「都城オートスポーツセンター」(仮称)。
コースの全長は4.85kmで"阿蘇"と同じくサーキットばかりでなくさまざまな施設を備えた総合レジャーセンターとして建設される。
65年度オープンを目指す計画そのものは関西の企画会社や不動産関係の会社が行なっているが、鹿児島市も全面的に協力する姿勢で、地元、市の資本による新会社も設立され、第3セクター方式で運営されるのが特徴である。
この計画が完成すれば、九州では初のサーキットになる。
(カーグラフィック 1988年 9月号より)
(※昭和64年→平成元年・昭和65年→平成2年) 

宮崎県都城市(みやこのじょうと読む)で計画されていたサーキット計画。
「MAC計画」と呼ばれるレジャー施設の一つだったそうだ。

MAC計画を許可 
 都城にサーキット場やゴルフ場 都城市西岳地区に計画されている総合レクリエーション基地建設(MAC計画)で、都城市は9月30日、大規模開発と林地開発に対する県の許可が同29日付で下りたことを明らかにした。
農地転用の許可を含め、これですべてクリアしたことになり、同市は平成8年度の完成に向け、順次工事に取り掛かる。
総事業費は3百億円以上見込まれ、バブル経済が崩壊した今、資金計画について心配する声も。今後の工事の進ちょくが注目される。
 MAC計画は63年にその内容が発表されたあと、2年9月に同市と山田不動産(大阪市)、大林組(同)が出資した第三セクター「マック開発」(資本金1億円)を設立した。
 計画は同市美川、高野町の山林約330ヘクタールを造成、F1クラスの自動車レースが可能な一周4.7キロのサーキット場をはじめ18ホールの本格的なゴルフ場、ホテルなどを建設する。
(92.10.1 宮日)
(http://miyazaki.4zen.jp/007/19/index.html より)
「レジャー産業 1991年12月号」に掲載されている91年末地点でのサーキットのデータとしては、コース距離4.15km、幅員12~15m、観客収容人数は6万~7万人、ピット数は50。
コースレイアウトに関しては掲載されていないが、コースは2つに分け別々に使用でき、コース内側にはカートコースが設けられているという。
レイアウトに関しては、"コーナーが多すぎて高速ギヤのチャンスが少なく、しかも直線が十分でなくてコーナー間が短い(中略)レーサー群には評価されないだろう。"とボロクソに言われている。
国際公認コースにしてはコーナーが多く、よく言えばテクニカルなレイアウト、悪く言えば平均速度が遅く抜けないサーキット。であったことだろう。

現在は予定跡地が「西岳モトクロス場」というオフロードコースとしてひっそりと使われているそうです。


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※追記2013/04/11

2013年2月2日土曜日

PenBay International Circuit (台湾)


Penbay International Circuit / 大鵬灣國際賽車場(台湾 屏東県)
全長/3,527m 右回り

スーパー耐久シリーズでは今年から海外戦が2戦行われることになっている。
ここでは台湾戦で使用されるサーキットについて簡単に触れたい。

12月22日の第8戦に組み込まれているのが、このペンベイ国際サーキット。
2011年9月にオープンした台湾初の国際格式のサーキットで、FIAのグレード2格式を取得している。
以前は第二次大戦中の旧日本軍の飛行場になっており、今も旧日本軍の遺構が残っている。
今は再開発され大鵬湾国際レジャー地区としてサーキット以外にもアウトドア・レジャーが楽しめる。




グレード2格式のフルコースは右回りの全長3,527m、コース幅は12-20mとなっている。

前半は北側オーバルをほぼ1周し、そこからテクニカルなロードコース区間に入る。
後半はかなり中速~低速のテクニカルな区間が続くが、このあたりは道幅やランオフエリアが狭く、コンクリートウォールが近いので、ミスが即クラッシュに繋がる区間である
S耐のような混走レースでは少々波乱がある展開になるかもしれない。
コースはほぼフラット。

フルコースの他に、ショートコース、北側に設けられた950mのオーバルコース、435mの南側オーバルコース、ドラッグストリップが使用出来る。

前述したとおり、飛行場として使われていたため、古い貯水塔がオーバルの内側にあったり、飛行機をモチーフとした建物を最終コーナー入り口辺りで潜ったり等もする。
FIAグレード2格式のサーキットなので、これから様々な国際大会なども開かれるなどではないだろうか。
日本でもこれからポピュラーな海外サーキットになるかもしれない。


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レイトンモーターランド(栃木など)

※追記 13/02/13

バブル期にモータースポーツ界だけでなく、様々な事業によって名を馳せていたレイトンハウスがバブル期に計画していたサーキット計画。

建財グループ(本社東京、赤城明社長)の場合、F1レースのチーム「レイトンハウス」を抱えていることもあり、モータースポーツ施設建設には積極的な姿勢をみせる。構想によると建設予定地は今市市と一部日光市を加えたやく二百ヘクタールで、このうち八十六ヘクタールをサーキット場に充てる。サーキット内部にはゴーカート、変形サイクル向けのミニコースを設置。
このほかモーターファンや児童・生徒が利用できる日本の交通歴史館、世界自動車歴史館など四つの博物館も建設する方針。総事業費は約百五十億円、建設用地の九割に上る地権者から同意を得ており、二月末には地元の今市市、日光市、県の三者と開発のための事前協議をスタート、平成二年着工、平成四年の完成を目指している。
(時事解説 平成元年1月27日号より)
※今市市は現在、市町村合併により日光市となっている。

F1が開催出来る規模のサーキットの他に、自動車に関する博物館やテーマパーク、その他ホテル、スポーツ施設なども備えた総合的なレジャー施設の計画だったという。
その他、同じようなサーキット場計画を栃木県今市市以外にも、北海道千歳市、熊本県産山村にも建設する計画だったそうだ。

レイトンハウスは89年に以前からメインスポンサードしていたマーチを買収し、レイトンハウス・レーシングとしてF1に参戦し、10月には建材をレイトンに改名した。
F1のスポンサードの他にも、様々な不動産でレイトンブランドを展開していったが、91年のバブル崩壊、更に9月12日には富士銀行不正融資事件で社長の赤城明は逮捕。
93年3月に懲役10年の実刑を言い渡された。

この「レイトンモーターランド」もバブル期を象徴する大規模な計画であったが、バブル崩壊に加え社長の逮捕という事もあり、当然ながらこの計画は頓挫したことだろう。

※追記
この計画が発表されてから、約三ヶ月後には付近の交通渋滞等の問題でこの計画は断念された。
その後、1991年に同地にはレイトンハウスによるテーマパーク建設計画が持ち上がったという。

2013年1月24日木曜日

東原セーフティ・サーキット・イン・カナザワ (石川)


金沢市に3.5kmのサーキット
現在、金沢市東原町で測量を開始しているこのサーキットは"東原セーフティ・サーキット・イン・カナザワ"という名称をもつ。
国鉄金沢駅から国道305号線で17km。いままでのサーキットのように人里離れた不便な場所ではなく、市街地が至近距離にある点で画期的なもの。
筑波サーキット以上に屈折の多いテクニカルコースで全長3.5km(ショートコース1.8km)。
名称が示すように9m~30mのコース幅に沿ったグリーンは5m~40mと広く安全性が高い。
パドックは1700平方メートルでスズカ並み。収容人数はグランドスタンド2000人で、その他は周囲のどこからでも観戦が出来るように原っぱが広がっている。
イギリスのブランズハッチと似たようなレース風景になる。
完成は来年5月の予定。レースはアマチュア中心に考えてオーガナイズしていく方針で、準国内以下のレースが多くなるようだ。また冬期のシーズンオフには、スノーモビル・レースを行う予定である。
(オートスポーツ 1972年 10月15日号より)

予定地であると思われる場所は現在「金沢モトランド」 というモトクロスコースになっている。

原っぱで丘になってる所から観戦出来るサーキットは素敵ですね。


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日本海間瀬サーキット (新潟) -未完

日本海間瀬サーキット


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日本海間瀬サーキットの歴史は、1967年8月から始まる。
新潟県オート・クラブ(ACNP)というクラブの代表が建設したこのサーキットは、当初はジープなどが走行するダートコースだったという。
国土地理院の航空写真では、1967年9月に撮影された完成したてのコースを見ることが出来る。
この頃は高低差が30m、コーナーの数は22あったという。

1967年9月の航空写真


日本海に面した間瀬サーキットは盆地であるゆえに、集中豪雨などでしばしばコースが水没してしまうという事があった。
その後、1968年6月には片側半分を簡単な舗装にし、株式会社日本海間瀬サーキットを立ち上げた。
そして、1970年5月からサーキット用の特殊アスファルトの舗装工事を始め、ロードコースに生まれ変わった。
ここで、注意したいのは当初は左回りのサーキットだったという。
70年代の航空写真

1971年のオートテクニックには当時の日本海間瀬サーキットの走り方を解説した詳細な記事が掲載されている。
当時のコースデータ



74年と75年には当時大人気だった富士グランチャンピオンレースの車両を持込み、レースをしている。
富士GCのそうそうたるメンバーがこの狭いサーキットを駆けまわったのは新潟の人々にはかなりの衝撃を残したのではないだろうか。
今で言うとSGTの車両が来た感じかもしれない。
75年のレースでは、マーチ73Sを駆る長谷見昌弘が予選で58.9秒のタイムをたたき出し、そのままポールトゥウィンを飾っている。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=3131



2013年1月22日火曜日

磐梯熱海スピードウェイ (福島)


福島県郡山市熱海町にレース場出現か
このはなしは昨年8月ごろ、国際ナスカー・スピード・ウィーク会社の駐日代表者の代理人である今井吉高氏が、同地に旅行のため宿泊した際に、「ここは自動車レース場には最適な場所である」と見込み、磐梯熱海観光協会長の橋本善美氏に相談をもちかけたことから、急に進んだ。場所は磐梯熱海駅から南に約1kmほど入った涼山、蓮山の一部の330万平方メートルの敷地にほぼ決定したが、地元側はあまりにもはなしが大きすぎて・・・と半信半疑。今年に入ってから国際ナスカー・スピード・ウィーク会社の代表者である香島佑禎氏(東北国際ナスカー・スピードウェイ社)が現地を訪れ、一部の土地の貸借仮契約を、さらに1月18日には正式契約を結び、具体的な計画に着手した。東北国際ナスカー・スピードウェイ社は、米国のインディアナ・ナスカー社と提携し、東北地方での興行権をすでに得ており、同社は4月までにアメリカ資本、財界の協力を得て資本金1億円のカブシキ会社として発足する予定。コース延長は4km、総工費30億円をかけて、昭和45年度中に完成にまでもってゆき、スピード・レースを開催する予定。1周4kmのレース場のほかに、スケート場などの設備も作り、あわせて大駐車場も作る計画という。
(CARグラフィック 1967年 3月号より) 
詳細不明。
ネットの一部では詐欺では?という疑惑。 


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2013年1月21日月曜日

道川サーキット (秋田)

道川サーキット
距離:約700m
コース幅最大:12m
コース幅最小:6m

バーダルハイスピードジムカーナ東北シリーズ 秋田県岩城町道川サーキットで行われた4月25日のオープニングレースは大々的に催され、1000人以上の観客が集まりました。地元の全面的な協力で、レストハウス、宿泊設備もととのっています。今後一層盛んになる可能性大です。 
(オートテクニック 1971年 7月号)






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2013年1月20日日曜日

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ (青森県) -未完

(国土地理院 70年代の航空写真より)

むつ湾・インターナショナル・スピードウェイ

所在地:青森県上北郡野辺地(のへじ)町
距離:4.8km / ショートコース 約3km
コース幅:20m
コーナー数:4
左回り

3コーナー辺りにショートカットコースも作られる予定だったが、オープニングレースの時点では作られていなかった。
最終的に使われたかどうかは不明。

コースはJAF公認もされたが、スピード域が高い故に"出来ればもっとテクニカルなものにするように"という指導が入ったこともあったという。
コース脇がすぐ海な為、砂や海水がコースに入り込み、水没することもあったという。


(オートテクニック 1972年8月号より)



トレースした図 矢印で850mのレイアウト

むつ湾・インターナショナル・カートウェイ

(国土地理院 70年代の航空写真より)




むつ湾・スピードウェイに併設されたカートコース。
スピードウェイが閉鎖された後も使用されていたが、動物園閉鎖と共に閉鎖された模様。

オープニングレースは
「むつ湾スピードウェイ開場記念ねぶたまつり '72日本カートプリ大会」(1972/8/5-6)が青森県、青森ねぶたまつり協賛で開催されたという。
これがJAFが開催する日本初の"カートプリ"である。
1972年(昭和47)には国際交流の一環として'72日本カートプリが開催され、1973年(昭和48)には全日本カート競技選手権が開始されています。
http://www.jaf.or.jp/msports/intro/his_j.htm 


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川口オートレース場 (埼玉)

(国土地理院 1966年の航空写真より)
(国土地理院 1966年の航空写真より)川口オートレース場(1952-1967)

コース距離:800m
コース幅:30m
コーナー数:2
路面:ダート


現在は500mのターマック舗装オーバルとして使われているが、開場した1952年から1967年までは800mのダートオーバルとして使われていた。

"105マイル・クラブ"(後のNAC[日本オートクラブ])が運営していたストックカーレース
「ナショナル・ストックカー・レース大会」を4度開催している。
第3回からJAF管轄に入った為、現在でもリザルトを確認することが出来る。
http://www.jaf.or.jp/msports/results/n-race/index.htm
優勝ドライバーを見ると、後々の日本モータースポーツを担うドライバーも多数参加、優勝している事が分かる。

1965年3月28日 第4回ナショナル・ストックカー・レース




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2013年1月19日土曜日

木更津飛行場特設サーキット (千葉)

(※ 2013/02/19 追加)

(オートスポーツ 170年2月号より)
(1970年の航空写真)


木更津の米軍飛行場(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)の滑走路を使った特設コース。

以前からもジムカーナなどでのモータースポーツイベントで使用されていたが、当時の米軍飛行場の司令官がモータースポーツファンだった為に、この計画も軌道に乗ったようである。
コースは右回りの全長3.5kmだが、西のヘアピン部分の直線を増やすことによって、もっと長い距離にすることもできた。

1970年5月10日には、レース開催を計画していたグループ・オブ・スピード・スポーツ(GSS)による練習会も開催され、ポルシェ・カレラ6で1分29秒というラップタイムを記録していたようだ。

70年の夏ごろに、GSSは"東京湾100マイル"という160km程度のレースを開催しようと計画していたが、開催されていたかは不明。

(オートスポーツ 1970年2月号より)




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2013年1月18日金曜日

富士スピードウェイ / ナスカー・フジ・スピードウェイ (1) -未完


CARグラフィック 1963年 8月号 p115 スポーツ・ニュース 箱根にストックカー レーストラック建設か 

 最近いくつか新しいレースコースのうわさが聞かれるが、もっとも確実なのは箱根に建設されるストックカーレーストラックの計画である。
それは日本ストックカーレース協会と言う団体で、中心的な人物はスズカにも出場した塩沢進午である。
このトラックはスズカのようなロードサーキットではなく、アメリカ流のバンクの付いた楕円形周回コースで、ふだんは自動車による曲乗りを見せて人を集め、時々本当のストックカーレースを開催するつもりと言われる。


富士スピードウェイの前身となるオーバルコースの計画が立ち上がったのは1963年頃


CARグラフィック 1964年 7月号 p129 スポーツ・ニュース
静岡県小山に「ナスカー・フジ・スピードウェイ」 

日本でアメリカ式のストックカーレースを開催すべく昨年12月に設立された日本ナスカー社(資本金3億2千万円、代表取締役 森 長英氏)では、御殿場に近い静岡県駿東郡小山町に2.5マイル(4km)の楕円形トラックと6km以上のロードサーキットを持つ「ナスカー・フジ・スピードウェイ」を建設すると発表した。
完成は明年4月を目標としている。日本ナスカー社はアメリカ デイトナに本拠を持つNASCAR(会長ビル・フランス)と技術提携を行い、極東におけるナスカー方式によるレースの独占的開催権を獲得したという。
ちなみに、NASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing)はUSAC、SCCAと並ぶアメリカの大きな自動車レース団体で、デイトナ500を初めとする全米のストックカーレースを統轄している。 


NASCAR Fuji Speedway 及び付帯施設完成予想図 (CARグラフィック 1964年 8月号より)

東京サーキット / 八王子レース・コース / トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ (東京)

東京の八王子近くにサーキットを作る計画があったそうです。
その名も「八王子レース・コース」またの名を「東京サーキット」と言うらしい。

当時のオートスポーツを読むと
"八王子市と西多摩郡秋多町にまたがる秋川の河原一帯約215万平方メートルが建設予定地。外苑タクシーの張煥慶社長が目論んでいるものだが、イースタン観光系の資本も導入して来春までに一周5.5kmのサーキットを完成させたい意向だ。将来はこれにストックカー用の楕円コースも加えて総合的なモータースポーツ・センターを建設するという。"(AUTOSPORTS 1965年4月号)
とある。
この記事では「花ざかりのレース場建設計画」として、前回紹介した「NAC箱根スピードウェイ(伊豆スピードウェイ)」や現在も存在するスズキの竜洋町のテストコースを国際サーキットにする事など興味深い項目が並んでいる。
まだ日本には鈴鹿しかオープンしていない時代。



1年後のオートスポーツには「第4のレース・コース "東京サーキット"建設計画の全貌」と題して4Pの記事が掲載されている。
(この記事が掲載されているオートスポーツ1966年4月号は電子書籍化して販売しているので、興味がある方は買ってみるといいかも。http://www.as-books.jp/books/info.php?no=AST19660401)

第4のレース・コースというのは、この時点で既に鈴鹿に加え、船橋・富士がオープンしているから四番目という事である。
この記事では、これら3つのコースのレイアウトと一緒に「東京サーキット」のレイアウトが掲載されている。


レイアウトの基本設計を簡単にまとめると
  • おむすび型のオーバルのインフィールドにヘアピンやスプーンカーブを含んでいる。
  • 外周オーバルが3.2km、インフィールドを加えると4km
  • 幅員は12m
  • エレベーションは最高8%
  • オーバルのバンク角は8°~10°
とある。
コースの西側から西南側にかけて、一部が山林にかかっており、高低差のあるオーバルになるという。
ちなみにテクニカルコースとして知られるもてぎのオーバルも高低差があるそうだ。
それでも、最大8%勾配のあるオーバルというのはかなり特殊なのでは…

オーバルコースはシャーロットと同様の「おむすび型」のオーバルコースとして紹介されているが、絵は右コーナーが存在する豆の様な形をしている。
かつてアメリカには「Trenton Speedway」というオーバルコース(1980年閉鎖)があり、オーバルの中に右コーナーがあったが、東京サーキットでは実際に右コーナーを作る予定だったのか、それともポンチ絵がへろへろなだけだったのかどうかは定かではない。
ただ、これはあくまとして基本設計の段階なので、ごく初期段階であろう。


※Trenton Speedway












”<東京サーキット>の建設計画が世に出たのはいまから2年まえ。東京・千駄ヶ谷でハイヤー・タクシー会社を経営する張煥慶氏が提唱したものだった。さらに資金面で、イースタン観光(本社、東京・佐久間町)の藤本威宏社長が計画に参加、電通の島崎千里専務やJAF(日本自動車連盟)の竜村徳理事らが設立発起人、あるいはアドバイザーとして名を連ねるに及んでしだいに具体性をおびてきた。藤本威宏氏は一つ橋大出身のインテリジェンス経営者、父親の軍治氏は日本のオート・レース界の草分けとあって、<東京サーキット>にイースタン観光の資本が投入されることになったのは偶然とはいえないようだ。PR面は電通が担当し、強力な組織力にものをいわせてマスコミ対策を推進するであろうことは想像に難くない。”
(オートスポーツ 1966年 4月号より) 
 

ここで更にポイントなのが、イースタン観光の藤本威宏社長という人物がこの東京サーキットの方向性を決定づけたのではないかと思われる。
電子書籍化した関連の記事として、この号と連動したオートスポーツwebの記事の中でもこの藤本威宏氏の父親、藤本軍治氏の解説をしている。
http://as-web.jp/as_feature/info.php?no=44#11_0
"1922年(大正11年)から1926年(大正15年)まで11回の日本自動車レースが開催されているが、日本に自動車レースを始めさせる強力な推進力となった人はジョージ藤本こと藤本軍次だった。藤本は昭和に入り、多摩川スピードウェイを実現させるのに力を尽くした人でもある。
 6歳のときに渡米し、1910年(明治43年)頃からポンコツ車を改造してレーサーに仕立て、全米各地を巡業してまわっていたが、1922年(大正11年)にハドソン・レーサーを持って帰国。早速、当時の有力な新聞だった報知新聞社の煙山二郎企画部長を訪ねて自動車レースの必要性を説き始めた。 "
”常設の自動車レース場をつくらなければいつまでたっても会場難は解消しないと、大正時代の日本自動車レースを推進した藤本軍次と当時報知新聞社企画部にいた金子常雄が目をつけたのは多摩川沿いにあったオリンピア球場跡地だった。日本スピードウェイ協会を推進母体につくり、敷地の所有者だった東横電鉄(現在の東急)を口説き落として、1936年(昭和11年)5月9日、日本で初めての本格的なサーキットである多摩川スピードウェイが誕生した。"(日本モーターレース史/桂木 洋二 より)
と、日本初の常設サーキットである「多摩川スピードウェイ」建設にも関わっている。
アメリカのモータースポーツを見てきた人間が多少なりとも関わっていると思えば、この「東京サーキット」をオーバルコースとして設計されるのも納得ができる。

レイアウトは純国産の設計が自慢だという。
当時存在した鈴鹿・船橋・富士には大小なりとも必ずは外国人のアドバイスや設計が入っている。
"既存のサーキットのうち鈴鹿はモンツア(イタリア)を設計したハウゲンホルツの手が加わっているし、船橋はピエロ・タルフィ、富士はスターリング・モスの助言を得てそれぞれ設計されている。いずれも国際的レーシング・ドライバーや有名なサーキット設計者の名前を使うことによって、ある意味ではコースを権威づけているわけだが、いっさいを国内技術者の手でまかなっている。"
(オートスポーツ 1966年 4月号より)  
(この辺の考察も先ほどのオートスポーツwebの記事が面白いです。)
しかし、純国産設計というのは別の記事を読むと少々疑問に思うが、これに関しては後々。

ここでポイントなのがサーキットの立地。
"西多摩郡秋多町まで、現在は甲州街道を西へ進み立川市のさき(日野橋)から右へ折れてざっと20km。将来は日本道路公団が建設する国土縦貫道路の中央道・八王子インターチェンジからサーキットまで都道を直結することにしている。そうなると都心の京橋からサーキットまで法定速度で32分で直結されるわけだ、"(オートスポーツ 1966年 4月号より) 
現在は圏央道のあきる野インターチェンジもすぐ隣にあるので、都心からのアクセスは抜群である。
"総工費は20億円以上。既存のサーキットと同様莫大な建設費だ。サーキットを建設することは、将来日本のモーター・スポーツがさかんになるのを見越しての先行投資という性格が強いが、<東京サーキット>ではレース・コースと合わせてレジャー・センターを同地につくって、家族で楽しめる、いわゆるファミリー・ランドを設ける予定でいる。"(オートスポーツ 1966年 4月号より) 

本格的なサーキットが東京近郊に建設されようとしていたというのは驚きである。
都心近くからすぐに通えるサーキットがあったとすれば、関東の人々にもモータースポーツが親しみのあるものとなっていたのかもしれない。



1966年7月の「実業の日本」という雑誌でも、東京サーキットが取り上げられている。
"社名は「東京サーキット」(資本金六億円、社長、藤本威宏氏)、三月二十二日に設立され、さる五月二十七日、現地で起工式が行われた。"
1966年の3月には「東京サーキット」という会社が設立され、これは先のオートスポーツにもオフィスの写真が映っている。
実際5月27日には現地で起工式が行なわれたということで、多少なりとも何らかの建設が始まったであろう。
"サーキットを、東京に至近の地に経営するというのは、各社の夢であり、東急、西武などの大資本もさかんに土地を物色していたが、地価の点で東京近郊はひじょうなコスト高になり、結局、あきらめざるをえなかったといわれる。この点、東京サーキットは、三年半ほど前から、東京一円を探し回り、秋多町に白羽の矢をたてたわけ。秋多町は農村人口の若い層が土地を出て、サラリーマン化し、収穫量も減るなど、将来に問題をかかえていた。ところが、サーキット進出の話があったので、町側も地域開発ということで、全面的にバックアップし、町有地の三分の一で提供してくれたことが、まず成功の第一歩となったという。全面積の七割が町有地で、のこりの三割が私有地、その地主二百六十人との交渉が、三月中にまとまり、こんどの起工式となったわけだ。 "
当時の日本では、鈴鹿で開催された日本GPの成功を受け、レースイベントを日本各地で開催し、レジャー施設としての一環として様々な資本が様々な場所で建設計画を立ち上げたという。
前回紹介した「伊豆韮山サーキット」も日通の観光部門が立ち上げた計画だったし、船橋も巨大レジャーランド「船橋ヘルスセンター」内の一つの施設としてサーキットがあった。
鶏が先か卵が先かという差はあるが、鈴鹿・船橋には既に遊園地などレジャー施設など平行した経営も同時に行なっている。
サーキットだけでは採算が取れないというのは、今も変わらないだろうが、そういった事情があるのだと思う。
それにしても東急や西武のサーキット計画も知りたい。
"もう一つ、東京サーキットの計画は、レース場だけではなく、総合レジャーランド的な構想を含んでいることが注目される。東京にいまやただ一つ残された清流といわれる、秋川渓谷の河原ぞいに、長さ二百メートル、幅八十メートル、高さ二十七メートルのサマーランドと称する構造物を建て、冬でも二十八度℃の気温に保っておく。ちょうど常磐炭坑の温泉を利用して、熱帯樹を植え、話題になった「常磐ハワイアンセンター」と同じ着想だが、このサマーランドは規模的に約二倍の広さで、プールや演芸場などをつくり、都民のいこいの場所にしたい、というもの。もっともこちらは温泉ではないので、ボイラーでスチーム暖房というわけ。このサマーランドはことし十二月中にオープンされるという。
 このほか、自然美をいかした公園、多摩テックのような遊園地、あるいはサンケイ・アトムズのファームグランドを作るなど、多彩な計画がある。
 大株主に電通、TBS、フジテレビ、ブリヂストンタイヤ、トヨタ、日産、帝王帝都電鉄などの有名会社が参加しており、資金力も充分、現在、総工費二十五億円の計画予定で、建設がはじまっている。 "
すでにASWEBの記事でネタバレしているかもしれないが、結論を言うと「サマーランド」、東京サーキットの正体はまさに現在の「東京サマーランド」なのである。
東京サマーランドのサイトにある沿革を見ると

http://www.summerland.co.jp/corporate/enkaku.html
"1966年(昭和41年3月)3月健全で、健康的な娯楽の提供を目的としたレジャーランド開設のため、現在の東京サマーランドの前身である(株)東京サーキットを設立。"

と東京サーキットの名前を見つけることが出来る。
では、どの段階でサーキット計画は頓挫したのか。
詳しいことはわからないが、もう少しサーキットを追ってみたい。



一方、CARグラフィック 1966年 9月号ではこう紹介されている。
"名称は"東京サーキット"でスポーツ・センター計画の一環として造られるもので、この東京サーキット建設予定地には、中央高速道路が42年6月開通予定で工事が進められており、サーキット完成時期も同時期になるみこみ。
東京サーキットの設計は世界的に有名なコース設計者であるフーゲン・ホルツの他4人で、コースも大変おもしろくできておりスピードとテクニックの両コースをそなえた本格的なものである。 "
フーゲンホルツ他4人! 全然純国産設計じゃないじゃん!ってツッコみたくなる。
そして、先ほどの基本設計から多少進歩したであろうサーキットのデータも掲載されている。

<コース内容>
スピード・コース(外周) 3km
テクニック・コース(内周) 1km
幅 12~15m
登り最大勾配8%
下り最大勾配10%
カント 最大16度
カーブ:スピード・コース9カ所 最小半径70m
    :テクニック・コース7カ所 最小半径25m
観客席 6000人収容





そして、続報がCARグラフィック1966年12月号に「着工まじかの東京サーキット」として報じられている。

"鈴鹿、船橋、富士につぐわが国4番目の東京サーキットが、東京西多摩の秋川ぞいの丘陵地帯に作られると聞いてすでに久しい。正式の名は「トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピード・ウェイ」(資本金6億、藤本威宏社長)でサーキットの設計をフーゲン・ホルツ、P・タルフィ、マネー・ペニィ、バッチャ・カルトらに依頼中であったが、このほどそのデザインがほぼ決定した。
スピード用のアウト・コースはマネー・ペニィが担当(彼はデイトナ・ビーチ・スピード・ウェイを設計し、現在オクラホマ・テルサのサーキットを設計中のサーキット・コンサルタントである)、アウトコース内側のテクニック用イン・コースは、スターリング・モスがロドリグェス・サーキットを参考として設計をアドバイスしたという。最終的名設計図はまだ発表されていないが、アウトコースは全長2.4km、幅16~23m、最高エレベーション2.5%、登り下りとも各々1カ所ずつで、ほとんどフラットにちかい。高度差は10m、バンクは最高18%である。
イン・コースは全長1.2km、幅12m、最高カント5%以内。特徴は直角コーナー3カ所を有すること、400mのモーターサイクル用コースが続くなどである。
アウトとイン・コースは延べ4kmで、国際公認2輪コースとしての資格も可能である。
サーキットはインディアナポリスよりやや遅いが270~300kmのスピードが可能で、フォーミュラ・クラスも可能。アウト・コースにはガードレールは使用せず、コンクリート・ウォールによる幅30mのセイフティ・ゾーンをつくるという。コース以外の諸設備もまったくシンプルなものとなり、またサーキット周辺の交通などにもかなりの配慮が見られる。
来年8月オープン予定は、土工費が大幅に増えたため、やや遅れそうである。 "

正式名称としては「トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ」と非常にアメリカ然とした名称になっている。
それもその筈、外周のオーバルコースはチャールズ・マネー・ペニー氏が設計している。
このマネー・ペニー氏は記事の紹介通り、デイトナのオーバルを設計した人である。
そして、何より日本では富士スピードウェイの初期段階、オーバルコースとして計画されていた頃オーバルコースをデザインしたのもこのマネー・ペニー氏である。
※オーバル時代の富士スピードウェイ













このオーバルコースは2.4km=約1.5マイル、バンク角18%=約10°、最高高低差2.5%となんともオーバルらしいオーバルが設計されている。
しかも、インフィールドはあのスターリング・モスがメキシコのエルマノス・ロドリゲスサーキットを参考にしたであろうレイアウトが設計されていたという。
スターリング・モスの日本での関わりといえば、またも富士スピードウェイが思い浮かぶ。
日本ナスカー時代に視察に来たスターリング・モスは富士スピードウェイの土地を見て、「オーバルは無理だ、ロードコースにすべき。」と原型となるコースを設計したという。 それを元に富士スピードウェイが設計されたのは有名な話である。
何かの繋がりを感じさせずには居られない。
※富士スピードウェイの完成予想イラスト












そして、間は飛ぶが1967年の7月8日に屋内型レジャーランド「サマーランド」がオープン
どの様な経緯があったかどうかは分からないが、サーキット計画のみは頓挫し、サマーランドを始めとするレジャー施設はオープンし、現在に至る。


大きな地図で見る

GoogleMapで現在のサマーランド周辺を見ると、屋内プール施設のある東側と、グラウンドなどがある西側に分かれている。
コースの西側から西南側が海抜200mの山林とあるとなると、現在グラウンドがある西側がサーキット建設予定地だったのかもしれない。
そう思うと、オートスポーツに載っていた変な形のオーバルコースの形も見えてくるのではないかと思う。
結果的に形は変わっていたかもしれないが。

「トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ」と呼ばれるオーバルコースはどういうレイアウトだったのかというのは、恐らく当時計画に関わっていた人々のみでしか見ることが出来なかっただろうが、おそらく立派でエキサイティングなものだったのだろうと思いたい。
東京サマーランドに出かけた際はこの幻のサーキットに少しでも思いを馳せてみてはいかがだろうか。


もし、今存在していたら自分はよく通っているだろうな…というしょうもない結論でした。



[追記]
2つ上、CARグラフィック 9月号と同じ頃、バイク雑誌であるモーターサイクリスト 1966年8月号には当時のレイアウト案を見つけることが出来たので、掲載したい。

コースの内容としては、CARグラフィック 9月号に掲載されていたデータを参照してもらいたい。

一番はじめに掲載されたオートスポーツ1966年4月号のレイアウトと比べると、インフィールドセクションの場所は多少変化しているが、外周オーバルコースの形はほぼ変わらないでいる。
ひょうたん型の様なオーバルコースになるのだろうかと疑問に思っていたが、どうやらこの形はほぼ決定していたようだ。
改めて考えると、これは土地の問題もありそうで、サマーランドの横を流れている秋川に沿ったレイアウトになるのは既に決定していた事なのかもしれない。
ちなみに、ここでも来年夏オープンとされている。

※こんな感じ?                                                                          














                 


オートスポーツ 1967年8月号の船橋サーキット閉鎖に関する記事の末尾にも東京サーキットに関する記述が多少ある。
"いっぽう東京の西郊に建設が予定されている東京サーキットは、この7月オープンしたサマー・ランドの収益を建設費に当てることにしており、オープンは早くとも来年の秋という見通しだ。"

この頃既にオープンしていたサマーランドの収益を建設費に回すという事で、サマーランドがオープンした当初でも、サーキット建設の計画は進んでいたという事が分かる。
この記事では船橋サーキットの閉鎖に伴い、大きく開いていたモータースポーツの間口を再び狭めてしまうのではないか、という趣旨の記事である。
当時は鈴鹿、富士、船橋しかオープンしていなく、関東で活動しているドライバーにとって船橋サーキットというのはとてもありがたい存在であったのは確かだろう。 当然ながら筑波はまだ無く、3年後の1970年にオープンする。
その船橋に代わるサーキットとして、関東のドライバーに東京サーキットは当時大きく期待されていたのではないだろうか。

余談ではあるが、2輪でお馴染みのヨシムラだが、60年代には自動車のチューニングにも乗り出している。
そのため、工場を1966年に現あきる野市、つまり西多摩郡秋多町に移転したそうだ。
これはつまり東京サーキット完成を見越しての工場移転だったのではないだろうか。
前述の通り、東京サーキットにはオーバルコースだけでなく2輪車用のオートバイコースが計画されていた。
当時純粋に"2輪車にも"目を向けて設計されたサーキットは鈴鹿サーキットしか無く、富士で初めて2輪のWGPが開催された際も、30度バンクの使用に関して危険を訴えたホンダがボイコットするという事件も起きた。
そういう点を考えると、関東かつメーカーの縛りがない2輪サーキットというのはとても貴重である。
当然サーキット自体が少なかった時代ではあるが。
そういう事で、東京サーキット近辺が現在の富士スピードウェイ周辺のように関東のモータースポーツの拠点になり得た可能性もあったわけだ。


トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ/
東京サーキット/八王子レース・コースの流れ

1964 ?月       東京サーキット計画が立ち上がる
1964-5 ?月     東京八王子市から西多摩郡秋多町の建設予定地が決定
1966年 3月中     地主260人との交渉がまとまる
1966年 3月22日  ㈱東京サーキット設立
1966年 5月27日  起工式
1966年 11-12月  サーキットデザインがほぼ決定
             間もなく着工

1967年 7月8日  東京サマーランドオープン
(1968年 秋以降   トウキョウ・インターナショナル・モーター・スピードウェイ完成予定)

1970年 9月    ㈱東京サマーランド設立(東京都競馬株式会社 全額出資)