//---FB----

2017年6月25日日曜日

国内モータースポーツ初のヒルクライムレース/伊豆長岡 (静岡県)

ここ数年でぐぐっと開催が増え、イベントの露出も増えてきた自動車のヒルクライムレース。
モータースポーツの歴史の中でも、山や丘を登りタイムを競う競技形式はモータースポーツの中でも単純かつ歴史ある競技。
そんな自動車ヒルクライムレースが記録上日本で初めて行われたとされる場所を紹介したい。

第二次大戦後まもなく、駐留米軍将校が中心となって、1951年に「Sports Car Club of Japan(SCCJ)」という国内初のモータースポーツ団体が創立され、戦後の日本モータースポーツ黎明期が始まった。
もちろん、現代的な常設サーキットは未だ日本にはなく、船橋のオートレース場(2016年まで存在した場所とは異なる)での競技や茂原飛行場での3時間耐久レース、更に東京・京都間の公道ロードレース(!)などが開催され、日本に様々な形のモータースポーツがもたらされた。

その後、米軍人が続々帰国した後にSCCJは休会になったものの、日本人の有志が1955年に同団体を再発足させた。
 この当時の発起人には、現在、伊藤忠自動車相談役の野沢三喜三氏、アメリカ日産社長の片山豊氏、自動車評論家として、またモータースポーツ界に欠くべからず存在である大和通考氏、佐藤健司氏が顔を並べていました。
(JAFスポーツ 1967年8月号 p10-11)
また、旧SCCJ所属の米軍人が創立した東京スポーツカークラブ(TSCC)なども誕生し、共同で米軍基地の飛行場でジムカーナやオートクロス競技が行われていたという。

そのSCCJが主催した日本初のヒルクライムレースが1956年7月15日に静岡県の伊豆長岡で開催された。
伊豆長岡でのヒルクライム競技はこの後SCCJとTSCCが交互に主催し、競技には米軍人が持ってくる最新のスポーツカーが多数揃った。
ル・マンで使われた中古のアストンマーティンがヒルクライムに参加した事もあったという。

戦後初の近代的な常設サーキットである鈴鹿サーキットが完成した後も、このヒルクライムコースでの競技は行われた。
1964年には日本グランプリの直後に公認競技としてのヒルクライムが開催され、グランプリに参戦したワークスマシンが多数持ち込まれたという。

1967年のJAFスポーツに回顧録として書かれた記事を参考に伊豆長岡、距離約400m、全面舗装の坂、大小7箇所のコーナーという特徴から、ここがコースだったのではないかと推測する。
なお、場所が正しいかは定かではない。
(1962年 国土地理院の航空写真より 場所は推定)


1967年の時点でこのヒルクライムコースは周囲が住宅になり使用できなくなったとの記述がある。

鈴鹿サーキットが出来る以前でも黎明期のモータースポーツフリークは様々な形でモータースポーツを楽しんでいた。
そこから日本のモータースポーツの基礎が築かれていった。
現在においても日本モータースポーツ史において重要な場所の一つであった事は間違いないだろう。

一般的には知られていなかったが、日本におけるヒルクライム競技の歴史は既に60年を越えていたのだった。

(Google Mapより)



(推定)

参考
JAFスポーツ 1967年 8月号 p10-11 「楽しきかなヒルクライム」
http://www.iom1960.com/history-suzuka/hs-history-suzuka.html
http://www.sccj.gr.jp/history.htm

2016年8月22日月曜日

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド (滋賀県)

びわ湖スピードランド / レークビワハイランド
外周コース約700m (750mという表記もある)

元々は始まりは琵琶湖大橋たもとにあったドライブイン、「ビック」の広場を借用してジムカーナ競技を始めたのがきっかけだったようだ。
8月4日OCCKが、琵琶湖大橋のたもとにあるドライブインの広場――ビワ湖スピードランド――を借りて開催したのがきっかけとなって、今後、ここでのハイスピード・ジムカーナが盛んになりそうだ。 (JAFスポーツ 1967年)
当時ドライブイン広場はダートになっており、当時のジムカーナレイアウトが掲載されている。
当時開催されたジムカーナのレイアウト例

広場時代の写真 土煙をあげている事からダートだという事がわかる

そのドライブインを経営していた名神観光㈱がサーキット建設を決定、広場をサーキットとして改築することとなった。
9月末完成を目指し、現在舗装工事中。これが完成すれば、約26,400㎡の競技コース、付帯設備としてガードレール(コース周囲全部)、フェンス、パドックスペース、クラブハウスなどもある一大ジムカーナコースとなる。 (JAFスポーツ 1967年)

1972年の航空写真より

こうして、完成されたびわ湖スピードランドは外周700mのオーバル状コースからインフィールドに様々な浮島が設置されたようなジムカーナコースとなっている。
一番緩いコーナーが48R、キツいコーナーが1.5R、コース幅は9~21mである。
なお、中央の島には鳥居のマークがあるので、何かが祀られていたのではないかと思われる。

詳細なコース図(オートテクニックより)

コース写真(オートテクニックより)

貴重な当時のサーキット映像がYouTubeにアップロードされていたので紹介したい。


途中から南側に遊園地ができ、「レークビワハイランド」という遊園地としてオープンしていたようである。
パドックスペースも一部遊具に潰されたようだ。

1975年の航空写真より 南側に遊園地が出来た

主にジムカーナ競技が行われているが、その他、ゴーカート、そしてストックカーレースも外周コースで開催された。
特筆すべき点としては、日本で初めてスリックタイヤが導入されたのがこのレークビワハイランドで行われたストックカーレースであった。
ただし、レースはかなりの大雨に見舞われ、レースが途中で中断、終了されるという程だったので、実際レースにスリックタイヤは投入されていないと思われる。
http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1711


サーキットとして、いつまで存在していたかは定かではないが、ゴーカート場としては使われていた様子である。
しかし、1982年の航空写真では既にサーキットの一部がテニスコートによって潰されている様子が見られる。
遊園地のゴーカート場としては最後まで使われていたようだ。

1982年の航空写真 何らかの用途では使われているように見える

その後、別のテーマパークに転用されるなどして、サーキットは駐車場となってしまったという。
現在は、不名誉にも開店休業状態でネット上で有名となってしまったショッピングモール「ピエリ守山」の駐車場となっている。



※カート場「琵琶湖スポーツランド」とは別である

2016年8月21日日曜日

NAC箱根スピードウェイ / 伊豆スピードウェイ / 伊豆ハイスピード・クライム・コース (静岡)

2016/04/01一部追記
2016/08/21一部改訂、追記

NAC箱根スピードウェイ / 伊豆スピードウェイ
サーキット部分 / 1.8km
オーバルコース / 2.4km


伊豆韮山サーキット」でググると真っ先に出てくるYahoo知恵袋の記事では、日本サイクルスポーツセンターの事だと紹介されているが、正確には伊豆韮山サーキットではなく別のサーキット建設の計画があった。

これは「NAC箱根スピードウェイ」や「伊豆スピードウェイ」などと呼ばれていたサーキットである。

オートスポーツ1965年4月号には"花ざかりのレース場建設計画"として、鈴鹿サーキットでの日本グランプリ成功を受け、様々な場所で湧いたサーキットの建設計画が紹介されている記事である。
この中にとして紹介されている部分から抜粋しよう。
これは日本オートクラブのめんめんが資金を出し合って建設を進めているレース・コース。第1期工事として1800mのサーキット、第2期工事として2400mの楕円コースが計画されているが、現在では第1期分のうち約600mの直線コースが完成している。
とあり、簡単なコース図が掲載されているが、まさしく現在の日本サイクルスポーツセンターと同じ場所にある事が分かる。

(オートスポーツ 1965年 4月号より)
日本サイクルスポーツセンター

大きな地図で見る

1965年4月の記事には"ダートコースながら、「NAC箱根スピードウェイ」を建設中"とある。
将来的にはロードコース、オーバルトラックを建設し、"「レーサー村」の建設も計画している。"とある

60年代~70年代初頭ははこの「日本オートクラブ(NAC)」という団体がストックカーレースを各地で開催していた。
まだ日本に鈴鹿サーキットしか存在していない65年4月時点では主に大井や川口のオートレース場を使用してストックカーレースが行われていた。
1964年のストックカーレースではプリンス・グロリアに乗る当時22歳の生沢徹が2度優勝している。
なお、当時のオートレース場はダートトラックである。

その為、常設のサーキットかつデイトナスピードウェイを参考にしたオーバルトラックの建設を当時から掲げていたのだった。

この辺りの経緯についてはNAC代表である塩沢進午氏の著書「日本モーターレース創造の軌跡」に詳しい。
なお、同時並行的に進められていた日本ナスカー株式会社(当時)による富士スピードウェイに関してはオーバルトラックから既にロードコースとしての計画に変更されている。

私どもは今日、日本最大級のスポーツ施設の一つとなっているサイクルスポーツセンターと競輪学校のある場所に案内されました。
 ここが一周4000mのオーバルコースの建設予定地ということでした。保証金を支払った予約契約書によると広さは200ヘクタール、民有地の坪単価は380円でした。その日は、5月初旬のさわやかな快晴でした。全景が見渡せた平坦な、丘の上での用地の見学では、全員、採草地の芝生の上に横になって、この地でのスーパースピードウェイの完成とレースを夢見ていたのです。(日本モーターレース創造の軌跡 p88-89)


コメント欄でminx-dx様からコメントを頂きまして、そこから一部引用させて頂きます。
伊豆スーパースピードウェイ計画地?と思われる場所に行ったことがあります。サイクルスポーツセンターの下田側だったとおもいますが、山の中に木が生えていない広大な土地が広がっていました。ヒルクライムやオフロードレースは70年代初頭まで行われていたようですね。
実地に赴いた方のコメントを頂きました。

実際に1966年頃のオートスポーツに建設予定地でのオフロードレース開催がされたという記録がある他、1967年のJAFスポーツには"キングオブザマウンテン"というヒルクライム競技が行われている記録がある。
7月30日 NAC・SSSA第3回キングオブザ・マウンテン 制限付き NAC、SSSA 伊豆モータースピードウェイ 
11月23日 第4回キングオブザマウンテン 制限付き NAC 伊豆修善寺 
(JAFスポーツ 1967年5月号 p29) 
サイクルスポーツセンターから下田側、つまり南側の土地に注目してみる。
多少開けた場所を発見することが出来た。
上記のコース図には南側に河川らしき図が見られるが、実際にこの場所の南側には川が流れている。





そこで過去の航空写真から同じ場所を見てみる。

1962年

1962年の同じ場所になるが、この頃はまだ、何も着工されていない頃である。
次に、1967年の同じ場所の航空写真

1967年
ある程度木が切り払われ、敷地が現れたようにみえる、そして、東側に周回路のような場所が見える。

そして、今の航空写真にオートスポーツ1965年4月号の情報に沿ってコース図を描いてみる。
Googleの航空写真に書き込んだ図
かなりコース図に沿って敷地が広がっているように見える。
つまり、今のサイクルスポーツセンターとは南側の敷地に本来のサーキット建設予定地があったのではないかと思われる。


実際にこの推測が合っているかは不明だが、塩沢進午氏の著書、日本モーターレース創造の軌跡(ネコパブリッシング)から一部引用すると
 その用地は、伊豆修善寺役場と地元民が人寄せの出来る「企業誘致」をしていた場所でした。広さは100万坪でした。1部は大仁田町原野、中心は修善寺町大野分の桑木平でした。この誘致に当たっては修善寺町は町有の約20万坪を無償で提供する用意までありました。
 山西社長は、当時の修善寺町大野区長小川守男氏と民有地の売買の予約をして約束証文としました。坪単価380円でした。 (p125)
とある。
ちょうど、この場所の西側が"静岡県伊豆市大野"という住所になるので、ここがサーキット建設予定地とほぼ間違いないのではないかと思われる。



そして、実際に東側にある周回路が前述されていたヒルクライム、オフロードレースの会場となっていた場所である。
ここは「伊豆ハイスピード・クライム・コース」として紹介されている。

伊豆ハイスピード・クライム・コース
所在地 伊豆修善寺町夏刈
ダート・コース 約1.2~1.4km
幅 10m, 高低差40m
コース使用 1日30,000円
コース図 JAFスポーツ 1967年8月号


ヒルクライムコース 写真

このサーキット計画が頓挫した後、NACと塩沢進午氏は「日本平スピードウェイ」や「東京湾岸スピードウェイ」などオーバルトラックの計画を複数立ち上げており、前者に関しては建設途中で頓挫している。
更に青森県の「むつ湾スピードウェイ」にてJAF脱退後、サーキットのオープニングレースとして、ストックカーレースを行っている。

-参考-
日本モーターレース創造の軌跡 (ネコパブリッシング)
オートスポーツ1965年4月号
JAFスポーツ 1967年7月号
JAFスポーツ 1967年8月号
JAFのリザルト http://www.jaf.or.jp/msports/results/n-race/index.htm

2016年5月9日月曜日

ジャパン・インディ・モータースピードウェイ / オートテクノポリス(関東/茨城?)

関東圏にオーバルサーキット新設年に1回インディ・レース!
 11月6日、かねてから噂に上がっていた、インディ・タイプのオーバル・サーキット建設プロジェクトが発表された。
 これはインディアナポリス・モーター・スピードウェイ・コーポレーション(IMS)とライセンス契約を結んだ共同システム(株)が発表したオートテクノポリス構想の一環となるもので、具体的には関東圏に280ha(85万坪)の用地を確保、全長4kmのオーバル・コース(インフィールドに5.4kmのロード・コースを併設)を建設、CARTのシリーズ戦を年1回招へいするというもので、サーキット以外にも3つのゾーンで形成されることになっている。
 具体的な作業としては現在、3カ所の候補地のなかから建設場所を検討中だが、用地決定の後に、20社ほどの共同出資(約500億円を予定)で新会社:ジャパン・インディ・モーター・スピードウェイ(JIMS)を設立、建設の推進にあたることになって94年完成予定でプロジェクトが進行しているとのこと。
 IMSとの契約調印式にはIMSのアントン・H・ジョージ筆頭副社長が来日、またその後に行なわれた記者発表会にはモータースポーツ関係者以外にも政財界からの出席者も多く、改めてプロジェクトの大きさを認識させた。
 FIA/FISAとCARTの関係など、CARTインディ・カー・レース実現までには解決すべき難問も山積しているが、実現を期待したいものだ。 
(オートテクニック 1989年12月号 p77) 
(イメージ図? CARBOY 1990年) 

そういえば、オーバルコースをつくってインディを日本に呼んじゃおう、という「オートテクノポリス」も、コンサートホールからホテル、ショッピングエリア、レストランと、生活のあるスペースを目指している。ここの建設計画には、オーバルコース以外に5.6kmのテクニカルコースとホッドロッド場ってのがあるんだ。 (中略) 
インディ用のオーバルコースを建設予定の「オートテクノポリス」は、記者会見の席で場所を関東というだけで明確にしなかったが、CB氏によると、ある場所でレンコン畑をぶっつぶそうとしているらしい。で、そこの町長さんがサーキット視察をしているという。キーワードは、利根川、水郷で、このあたりでレンコン畑というと、千葉県には広大なレンコン畑はなさそう、もうひとつのレンコン名産地は茨城県の霞ヶ浦近辺だが。 (CARBOY 1990年  一部抜粋) 

1989年11月の報道によると、施設名は「ジャパン・インディ・モータースピードウェイ」となり、長期的なプランとして、インディ500参戦ドライバー、車による「Japan Indy」を毎年開催するという構想だったようだ。

当時、FISA(国際自動車スポーツ連盟、現FIA)がオーバルレースを基本とした世界選手権を行う構想があり、アメリカのオーバルトラックの他にヨーロッパ、日本の未建設のオーバルトラックが開催地の頭数に入っていた。
The loudest shot in the CART-FISA battle was fired Oct. 10, when FISA's World Council, meeting in Paris, announced plans for an international oval-track series, starting in 1992, with races at as-yet-unbuilt tracks in Japan and Europe and, presumably, the speedway. (ニューヨーク・タイムズ 1990年10月29日http://www.nytimes.com/1990/10/29/sports/auto-racing-indy-takes-a-worldwide-view.html )
ちなみに、この件ではCARTはFISAが揉めており、1989年には富士スピードウェイでの開催がFISAの圧力によって中止になる出来事も起きていた。

結果、日本でのアメリカンオーバルレースは約10年後、1998年ツインリンクもてぎにて行われたのであった。

なお、この計画を主導していた企業は十勝スピードウェイなどの建設にも出資をしている。

-参考-
http://www.upi.com/Archives/1989/11/07/Indy-name-to-be-used-in-Japan-racing/9714626418000/
http://www.nytimes.com/1990/10/29/sports/auto-racing-indy-takes-a-worldwide-view.html
オートテクニック 1989年12月号
オートテクニック 1990年8月号
CARBOY 1990年

2015年3月7日土曜日

F1 横浜市街地/横浜での市街地レース構想

F1夢のレース横浜で/スリル満点!300キロ市街戦/ 
あのモナコの興奮が…/62年8月に「青年会議所」が誘致/13日に正式提案国際モータースポーツの最高峰「F1グランプリ」を、横浜で開こうと準備が進められている。計画しているのは、あの長島さんを大洋ホエールズの監督にと、熱烈なラブコールを送った横浜青年会議所(浅利治理事長)。十三日の総会で正式に提案されるが、二年後の六十二年八月、横浜スタジアムから、山下公園にかけての市街地道路をコースに組み入れて、港YOKOHAMAにふさわしい世界的イベントにしようと意気込んでいる。(以下略)(東京中日スポーツ 1985年7月6日 1面)

70年代後半、富士スピードウェイで開催された日本でのF1が途絶えたが、その後も諦めずにF1を日本で開催し続けようと努力する動きがあった。
当時は横浜の他、後にF1日本グランプリが開催される鈴鹿サーキットや富士スピードウェイなど日本GPへの誘致は各所で行われていたという。
その中でも、この日本の大都市で行われる市街地レースは関心を引いた。
横浜市街地でのF1日本GP開催は1983年に横浜青年会議所から構想が浮上し、そこから本格的に計画は進行した。
1983年は丁度同時期、別府市街地での全日本F2の開催が検討されていた時期でもある。
同時期に日本の都市での市街地レース開催の機運が一部で高まっていたのである。

横浜青年会議所は当初山下公園前をホームストレートにするレイアウトを構想していた。
しかし、実際には神奈川県警や病院の正面を通っていたり、ピットロードや観客席などの設置が不可能だったようだ。
山下公園の周りで開催するプランはそもそも実現するにはあまりにも困難だった。
横浜市金沢区の工業団地、港北ニュータウン、大黒埠頭などが検討されたが、どれも騒音問題などがネックとなり選定は困難を極めた。

(横浜スタジアム・山下公園周りでの案 [カーグラフィック 2006年1月号])

そこで新たに提案されたのがみなとみらい地区である。
みなとみらい地区は三菱重工の造船所や国鉄の貨物駅、操車場などが存在した埋立地の再開発で建設された街である。
当時は着工されてから間もない頃であり、街どころか土地も全く完成していない状態である。
公道サーキットには様々な条件も求められるが、まっさらな土地では自由度も高いであろう。
事実、みなとみらいでのレイアウトも幾つか思案され、最終的には日本のトップドライバーの監修を受ける予定があったという。

新しい街の発展や、国際都市としての横浜というPRも含めたみなとみらいでの市街地レース開催である。
当時のF1市街地レースへの視察や、横浜でのF1開催での経済効果なども試算され、F1のドン、バーニー・エクレストンとの交渉も進んでいた。

(みなとみらい21での一案 [カーグラフィック 2006年1月号])

しかし、1989年に横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念する博覧会、横浜博覧会の開催が決定。
みなとみらい地区を使用することで、F1開催が不可能になり運営側が延期を決定。
その他、公道を使用する事について警察からの難色も強く、様々な問題が山積みの中、同時期にF1誘致に動いていた鈴鹿サーキットでの日本GP開催が決定し、ついに横浜市街地でのF1レースの計画は潰えた。

横浜でのF1開催については日本評論社から出版された城島明彦著の"F1の経済学" に顛末が詳しく記載されている。
ここには当時のF1データや、同時に進行していた鈴鹿サーキットのF1誘致などの事も書かれていて興味深いので、絶版本ではあるが興味があればぜひ探してもらいたい。

横浜でのF1開催は消えてしまった。
だが、横浜での市街地レース開催は再び計画された。
2006年にアメリカのオープンホイールシリーズ、チャンプカー開催が計画されているという報道、更に2010年にはALMS(アメリカン・ル・マン・シリーズ)の開催が計画されていたという報道もあった。
チャンプカーに関しては北海道の小樽市での計画とほぼ同時期である。
だが、残念ながらチャンプカーはシリーズ自体がインディカーに吸収され消滅、ALMSについても組織が再編されたりと今となってはカテゴリー自体が消滅してしまっている。
これらに関しては横浜の市議会議員や有志団体によるロングビーチGP、マカオGPへの視察が行われたという。現在も市街地レース開催を目標に掲げ活動しているようだ。

2011年、日本で初めて公道を使ったフォーミュラ1のデモランを行ったのも横浜である。
このイベント開催には当時の横浜市長の後押しもあったという。

ALMSの計画では既にEVカーやHVカーを使ったエコ志向の自動車レースが提言されていた。
そこで時代が追いつくかのように2014年の秋からは電気自動車の世界選手権であるフォーミュラEが始まる。
フォーミュラEは電気自動車で行われるレース故に騒音や公害が少ないレースとして掲げられており、すべてのラウンドが市街地で行われるレースである。
日本に関係の深いチームの参戦や日本国内でのメディア展開から日本でのフォーミュラEレース開催も予想されているが、その中の候補として横浜の名が上がっているのもよく見受けられる。
事実、横浜市の公文書でもフォーミュラEの開催についての提言をしている文面も見受けられ、実際に誘致に向けて動き出しているとも言われている。

幻の横浜市街地グランプリが30年の時を経て現実のものになる…のだろうか。

-参考-
「東京中日スポーツ 1985年7月6日」
「F1の経済学」(城島明彦 日本評論社)
「カーグラフィック 2006年1月号」
http://f1express.cnc.ne.jp/interview/index.php?cat_id=241&teiko_id=155838#
http://www.townnews.co.jp/0104/2010/04/22/45114.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%A8%E3%81%BF%E3%82%89%E3%81%8421

2014年1月26日日曜日

老山(ローシャン/ラオシャン)・サーキット(中国・北京) [追記/修正アリ]

今回は指向を変えて外国のサーキット。
中国には60年代に建設されたサーキットがあったという情報が2chに流れている。
68 :音速の名無しさん:2010/10/31(日) 23:06:09 ID:vUI9Q4x80
あとがいしゅつかも知れないが、中国。
F1中国GPやってるサーキットとは別に、
'60年代あたりに結構立派なサーキットが作ってあったらしいね。
「将来、こういう施設も必要になるかも知れない」って。
日本よりよっぽど先見性があるw 
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/f1/1285787950/ 

そして、関連があるのではないかという記事を1983年のカーグラフィックから抜粋してみた。

香港-北京ラリー詳細決まる 5月1日から5日間 武漢経由で3400km
 幻に終わった北京-パリ・ラリーに代わって、今度は、新中国を舞台とした初の国際モータースポーツイベントとして香港-北京ラリーが行われることになり、開催要項の決定と同時に、昨年12月末から、参加の受け付けが始められた。 香港自動車協会と中国モータースポーツ協会との共催で開かれるこれは、5月1日に香港・九竜のニューワールドホテル前をスタートし、5月5日、北京の天案門広場でフィニッシュを迎えるもので、ルートは、工業都市・武漢を経由する。
(中略)
もうひとつ、北京郊外にある1周4.8kmのローシャン・サーキットでの最終スペシャルステージも、話題のひとつだ。このコースは、文化大革命前に建設されたまま、使われずにいたもので、ピットやガードレールなどの付帯工事が未完成な状態だが、鈴鹿サーキットに先んじて、新中国にレーシングコースが建設されていたことは興味深い
(後略)
(CG 1983年 3月号 P326)

実際には第1回目の香港-北京ラリーは1985年に開かれたが、恐らく同じルートだと思われるので、当時のルートを追って北京周辺を探してみると、サーキットらしき道の跡が見つかった。


大きな地図で見る
ここが例のサーキットであるかどうかは、実際の所不明ではあるが、かなりサーキット然とした姿をしているように見える。
グーグルマップの定規機能で大体の距離を調べると約5.6km、多少記事にある距離と差があるが誤差の範囲ではないかと思われる。
他のラリーに関する資料を読んでも、ここが使われたと思われるSSの距離は5.5kmとあったので、おそらく同じであろう。
どちら側に進行するかどうかも実際には分からないが、左回りと仮定して見てみる事にする。
南側にあるストレートは約1km、ピットロードのような側道も見える。ここを仮のスタート地点としよう。
バックストレートは約1.5km以上あり、幹線道路に沿ったかなり長いストレートだと言える。ここから、うねうねとコーナーがホームストレートまで連続する。
仮に3等分のセクター毎に分けるとかなりバラエティの富んだ構成で、全体的なテクニックを問われそうである。

文化大革命は1966年から1977年辺りまで続いた中国の改革運動である。
このサーキットに関する資料もその大規模な運動の中で闇に葬られたのかもしれない。

追記(13/2/2)

中国、F2レースに興味最近、日本を訪れた 香港自動車クラブの関係者が語ったところによると、国際社会への復帰を急ぐ中国では近い将来、国際規格によるF2レースに取り組む意向であるという。舞台となるのは、北京の西の郊外にある老山(ラオシャン)サーキットである。ここは、日本の鈴鹿サーキットよりも早く、1960年代のはじめには基本部分の走路のみは完成していたものだが、その後、文化大革命の際に、西欧的なものに対する排斥運動のあおりを食らって、打ち捨てられたままになっていたものである。現在はピットや観客席などの付帯設備の工事が急がれているほか、走路自体も国際水準に合致したものになるように、大幅な改修が加えられることになっている。これに先立ち、中国当局では、中国各地を走るラリーとレースをミックスしたような大イベントの開催を計画していたといわれているが、昨年の香港・北京ラリーももう少しのところで開催できなかっただけに、事の成り行きに対して、関係各方面は慎重な姿勢を崩していない。(CG 1984 4月号より)
結局1983年に第1回を開催する予定だった香港-北京ラリーだが、実際には開催されず、2年後の1985年に初開催される事になった。
この地点でサーキットがSSとして使われたようではある。

結局、F2レースが開催されることもなかったようで、サーキットが完成される事もなく正式な自動車レースを開催したことも無いのではないかと思われる。
しかし、中国語でWEB検索をしてみると、現在は自転車用のコースとして使われているようである。
1周5kmであるという表記もあるので、場所は上記の場所で間違いないだろう。

追記(14/1/26)
上記で示した場所は全くの見当違いの可能性が高かったので、訂正させていただきます。

こちらの北京の西部にある"老山マウンテンバイク場"の周りにある道が恐らく正しいサーキット跡だろう。


大きな地図で見る

この周りにある道は現在公道として使われているようだが、ここがコース跡だと思われる。
Googlemapで距離測定をしてみると4.9kmという事で記事にある距離とも近く、北京の西側という位置的にも合致する。
現在は北京オリンピック時のマウンテンバイク競技の会場として使われ、コース西側にも自転車競技用のスタジアムが建設されている。

2013年4月24日水曜日

阿蘇インターナショナル・スピードウェイ(熊本県)

阿蘇インターナショナル・サーキット(仮称)
フルコース:6.01km
東コース:3.91km
西コース:2.18km



 九州にサーキットふたつ!?
このところ日本各地でサーキット建設計画の噂が絶えないが、最近になって、熊本と鹿児島でも同様の計画が進められている事が明らかになった。
前者は九州産交(本社・熊本市、岡陽一社長)が手掛ける「阿蘇インターナショナル・スピードウェイ」(仮称)。
阿蘇外輪山付近に1周6kmのコースで、レジャー施設を含めた総工費は70~80億円。64年度中に着工し、65年度中にまず東コースを完成させるという。
(カーグラフィック 1988年 9月号より)
(※昭和64年→平成元年・昭和65年→平成2年) 

熊本県阿蘇郡阿蘇町(現熊本県阿蘇市)に建設が計画されていたサーキット。
地元の九州産業交通が主体となっていた。

コース内容としては1989年中に東コースを建設し、第2期工事として続いて西コースを建設する予定だったようだ。

熊本のドライブコースとして有名な「ミルクロード」沿いに建設が予定されていたが、霧が多い他、国定公園法との調整でも手間取っていたようだ。

当時、この辺りでは建材(=レイトンハウス)が阿蘇市の西側に隣接する産山村にF1開催規模のサーキット建設計画を発表。
そして、北側の県境を超えた大分県上津江村では既にサーキットの着工に入っていた。
これが今の「オートポリス」である。

約15km圏内にF1開催が可能なサーキットが3つも計画されていたという、まさにバブル期のある種狂気じみた程のF1・モータースポーツバブルを象徴するような事柄だろう。


大きな地図で見る